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専門コラム「指揮官の決断」

第395回 

特別権力関係

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専門外の話ではありますが

今回は、当コラムにしては珍しく専門外の領域に踏み出そうとしています。

表題は法学部出身の方には聞きなれた専門用語です。

公法学、主として憲法論において、人権が制限される根拠となるのが、この特別権力関係です。

ある一定の公法上の立場において、公法の規定が原因となって国民と公権力との間に一般とは異なる法律関係が生ずることを言います。

例えば、公務員には労働基本権がすべて無条件に認められるわけではなく、在監者には著しい人権の制限が加えられます。

その根拠を特別権力関係という概念で整理しようとする考え方を特別権力関係論と呼びます。

この特別権力関係において、伝統的に認められてきた原則には次のようなものがあります。

1 法治主義の排除

  公権力は包括的な支配権(命令権、懲戒権)を有し、法律の根拠なくして私人を包括的に支配できる。

2 人権保障の排除

  公権力は私人の人権を法律の根拠なくして制限することができる。

3 司法審査の排除

  公権力の行為の適法性について、原則として司法審査に服さない。

日本国憲法下の日本では、法の支配や基本的人権の尊重という考え方が支配的で、この特別権力関係という考え方は支持されておらず、その言葉もあまり用いられていません。

たとえば、全逓東京中郵事件において、「公務員にも労働基本権が保障されるが、内在的に制約を受ける」として、特別権力関係が修正され、在監者に対しては、拘置所の新聞記事の一部を抹消した「よど号」記事抹消事件において「相当の蓋然性」がある限り許容されるとしています。

何を面倒くさいことを言っているのかとお考えの読者の方も多いかと拝察いたします。

実は、最近の自衛隊を巡る議論が変だなと思う点が多々あり、その一つがこの特別権力関係という考え方に纏わるかもしれないと考えています。

パワハラが許されないのは当たり前だけど

世を騒がせた陸上自衛隊のセクハラ事件があります。筆者はそのセクハラが行われた部隊を知りませんし、筆者が制服を着ていたころと比べると女性自衛官の数も非常に増えており、その付き合い方もかなり変わっているとは考えますが、セクシャルハラスメントなどというものがあってはならないということに疑いはないかと考えます。そもそも階級にものを言わせてそのような行為をはたらく者の品性を疑いますし、訴えざるを得ない状況に追い込まれた女性隊員の胸中を察するに余りあると考えます。

一方で、自衛隊を巡ってはパワーハラスメントの議論も喧しくなっています。

もちろん、パワーハラスメントも許容されるべきではありませんが、何がパワーハラスメントになるのかは注意を要すると考えています。

筆者が海上自衛隊の幹部候補生学校に入校した頃(昭和57年です。)、海上幕僚長、幹部候補生学校長は海軍兵学校出身者でした。自分たちが帝国海軍の伝統を海上自衛隊に残さねばならぬという使命感をもって教育された筆者のクラスは、それなりの鍛え方をされました。

もともと海上自衛隊幹部候補生学校というのは、三自衛隊の幹部候補生学校の中で規律の厳しさは断トツと言われており、その訓練の厳しさには定評がありました。陸上自衛隊が旧陸軍を完全否定するところから始まり、航空自衛隊は旧軍に前身がなかったのに対して、海上自衛隊は帝国海軍の伝統があり、候補生学校も旧海軍兵学校の地である広島県の江田島に作ったくらいです。

そこで行われた教育は、「合理的」な教育ではありませんでした。あえて言うと「理不尽さ」に耐えることを教える教育であったかもしれません。

戦争とは理不尽なものです。個人的には何の恨みもない敵と命がけで戦わなければならないのです。まして海軍は、敵と戦う以前に、理屈が通じない感情を持たない大自然と闘わなければなりません。そこへ筆者たち一般幹部候補生は、一般隊員としての経歴を持たずに大学教育を終えて幹部候補生となり、任官すると、下手をすると自分が生まれる前から自衛隊にいた隊員や、自分の父親と同い年の隊員を部下に持ち、その連中を戦場に連れて行って一緒に戦わなければならないのです。

理不尽さに耐え、気力体力と知力で敵を圧倒しなければとても敵と互角に戦うことすらできません。武器が圧倒的に優秀であるならばまだしも、敵より劣る性能の武器や遥かに少ない兵力で戦って勝利を得る指揮官となるためには、並みの鍛え方ではだめなのです。

そのような若い幹部を養成する幹部候補生学校では、したがって、理不尽な徹底的な鍛え方をされます。理不尽さにどう耐えていくかという正解が教えられるわけではありません。

候補生たちは時間的、精神的、体力的に追い詰められていき、問題解決の方法を自分で見つけ出していかなければならないのです。

いろいろな訓練や鍛錬行事があり、日常生活においてもあらゆる点でチェックされ、どれほど頑張っても、また、あらゆる準備をしても、さまざまに指摘され、指導され、罰として腕立て伏せをさせられたり、グランドを走らせられたりします。外出前の服装容儀の点検では、うんざりするほどの再検査で外出が何時間も遅らせられるなどということは日常茶飯事です。

そうやって候補生たちは鍛えられていきます。

しかし、それらは決してハラスメントではありません。つまり、いやがらせやいじめではないということです。

候補生たちは徹底的に鍛えられるのですが、自分たちを鍛えた教官や指導官に対して恨みを持つどころか、懐かしさと感謝の気持ちさえ持つようになります。

彼らがいやがらせやいじめの気持ちで候補生に接しているのではないということが分かっているからです。

それを当事者ではないメディアなどが見ると、パワーハラスメントが行われているように思うらしく、現在の候補生学校では、腕立て伏せをさせたりすることは禁じられているようです。

陸上自衛隊には「前支え」という罰がありました。彼らが装備しているライフル銃を「捧げ銃」の状態で数十分耐えるという罰です。ライフルは3キロ以上の重さがあります。それを「捧げ銃」の状態で保持していると腕が振るえ、痺れ、大変な思いをすることになります。陸上自衛隊伝統のこの鍛え方も最近は禁止されたようです。

これを体罰と解釈するかどうかということがそもそもの問題となります。

軍隊と学校やビジネスの世界は別世界なんですよ

軍隊という組織は、他の組織とは全く異質の組織であり、そこに適用される考え方も異質であるべきです。

たとえば、日本では国家公務員はすべて採用時に服務の宣誓をしなければなりません。

次のような文言です。

「私は、国民全体の奉仕者として公共の利益のために勤務すべき責務を深く自覚し、日本国憲法を遵守し、並びに法令及び上司の職務上の命令に従い、不偏不党かつ公正に職務の遂行に当たることをかたく誓います。」海上保安官も同じ宣誓を行います。

一方、自衛隊員の場合は、宣誓の文言が異なります。

「私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います。」

事に臨んでは危険を顧みない、身をもって責務の完遂に務める、という文言が入っています。

つまり、任務のためには自分の命を犠牲にすることを厭わないと宣誓しているのです。

この宣誓をするかしないかは個人の自由であり、強制はされていません。ただ、宣誓をしないと自衛官になれないというだけです。

自衛隊というのはそのような組織です。一般の官公庁や会社とは根本的に異なる組織なのです。

世界中の軍隊が、そのような覚悟で軍人たちを鍛えており、強い軍隊では想像を絶する訓練が行われています。

新入隊員教育の現場で思ったこと

筆者は、新入隊員を4か月で教育・訓練して艦隊に送り込むという教育部隊の指揮官として勤務したことがあります。つい先週まで高校や大学にいた連中を部隊に受け入れ、部隊で何とか使いモノになる隊員に鍛えなければなりません。

特に筆者が指揮した教育部隊は、海上自衛隊の新入隊員教育発祥の地であり、海上自衛隊を造ってきたその出身者たちは、それを誇りにしていました。その教育部隊が現実に妥協してしまうと、海上自衛隊全体の新入隊員教育に大きな影響を与えるおそれがありました。

筆者は着任するとすぐに教官、指導官、その他のスタッフを集め、海上自衛隊新入隊員教育の原点に帰り、新入隊員教育はどうあるべきかを真剣に見直すように求めました。

そして、新入隊員たちが、ここを卒業後艦隊に配属され、どのような戦場に出ても必ずそれなりの職務を果たし、そして不幸にして戦い敗れても必ず生きて帰ってくることができる隊員に育てることを要求しました。

その結果、その教育部隊の教育や訓練は激烈なものになりました。

しかし、筆者は教官たちに脱落者を出すことを認めませんでした。どんなにつらい訓練であっても、それに耐える神経と同期の団結を作るように求めたのです。

指揮官として、ただ眺めているだけでは部隊は動かないと考えた筆者は、連日プールに出て、泳げない新入隊員の横を一緒に泳ぎました。また、匍匐前進のつらい野外戦闘訓練にも必ず同行し、脱落しかかっている学生の横を匍匐しながら、最後の突撃を一緒に走りました。

もちろん、日常生活でベッドメイキングがうまくなかったり、制服のアイロンの当て方がよくなかったりした場合には、各指導官からそれなりに指導がなされました。

少し前まで高校や大学にいた若者にとっては苦しくつらい生活だったはずです。

しかし、修行式に臨む彼らは、ご父兄が来校されているにもかかわらず、教官との別れに目を赤くし、別の任地に赴任する同期生との別れを惜しむ始末です。

つまり、軍隊生活の厳しい規律の中で、様々指導を受けてきても、それをいやがらせやいじめと受け取っていなかったということでしょう。

もちろん、ついていけずに「いじめ」や「いやがらせ」と受け取って退職していく隊員も他の教育部隊ではいたはずですが、筆者の指揮した部隊では脱落者がおらず、全員が修業しました。

新入隊員の次に入校してきたのは、一般隊員として入隊して何年か経ち、三等海曹に昇任したばかりのクラスでした。初任海曹課程といって、海曹隊員としての覚悟や体力、基礎的な素養を身に着けさせるための課程です。それまでのセーラー服を着用する「水兵さん」たちは2年ごとに契約更新して30歳までに海曹への昇任試験に合格しない限り退職していくことになります。海曹に昇任すると、定年まで勤務する本格的な海上自衛官になります。

ここの教育も筆者の指示で激烈なものになりました。

筆者自身が入校式において、「ここでは、徹底的に鍛える。それなりの覚悟をして入校してこなかった者は、三等海曹に昇任したことを後悔することになる。プロになるというのはそういうことだ。」と言い放ち、水泳や陸戦訓練を一緒にしていきました。

この課程の出身者も修業して船に戻り、近くに入港したからと言って遊びに来てくれる者もいました。

つまり、どのように厳しく鍛えてもハラスメントと受け取られるかどうかという問題とは別だということです。

特に軍隊は、より厳しい条件で鍛えられた精強な部隊が勝利を収めていくのであり、そのような性格の組織を、世間の常識の範囲で評価すること自体が過ちです。

新聞が他社と購読者数を競うような生易しい世界ではないのです。また、小学校や中学の教員が児童や生徒に手を上げるのとはまったく動機が異なります。教え子の生死にかかわる問題なのです。

パワハラだと批判して腕立て伏せやライフル銃の前支えを禁止するのは簡単です。そこで学校のクラブ活動並みの鍛え方をされた隊員たちが並外れた訓練を受けた敵と戦って敗れると、命を失うのはパワハラなどを非難した部外者ではなく、ろくな訓練も受けずに甘やかされた隊員たちなのです。

筆者は新入隊員の教育部隊の指揮官を経験して分かったのですが、教育に当たる者たちは一生懸命に隊員たちを教育しています。筆者もそれら教官の熱意を感じ取ったため、「どんな戦場からも生還できるように鍛えよ。」と指示を出し、自分でもできる範囲のことをしてきました。多分、筆者たちを教育した幹部候補生学校の教官や指導官たちも同じ想いだったんだなと考えています。

スパルタの母の訓え

軍隊教育の厳しさを、皮相な目で見て、「パワハラ」と断ずるのは簡単ですが、その結果、惨敗して命を失う者たちに誰が責任を取るのかということをお考えいただきたいと思っています。

軍隊であってもセクハラが許されるということにはなりません。しかし、厳しい鍛え方がパワハラなのかどうか、大学のクラブやビジネスの世界と同じ基準で評価するのは明白な間違いです。そういう意味で特別権力関係が支配する世界なのかもしれません。

世界の名言の一つを皆様にお示しして本稿を閉じようと思います。

「剣が短いことを嘆いた息子に、スパルタの母は一歩踏み込めと教えた。」