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専門コラム「指揮官の決断」

第406回 

日本航空123便墜落事故の謎  その4

カテゴリ:危機管理論入門

承前

1985年8月12日に起きた日本航空123便の墜落事故に絡む様々な憶測に関する話の4回目です。

前々回、前回を通じて、この事故に関して、巷で陰謀論が喧しく述べ立てられていることに疑義を述べてきました。

今回は、その最終回であり、当コラムなりの結論を出したいと考えています。

厚木の海兵隊のヘリが救難に駆け付けたにもかかわらず、直前に日本政府の要請により救難を中止したということはありえない、なぜなら厚木にそのような海兵隊の部隊は所在していなかったからということで、そもそもこの陰謀論の根拠が疑わしいことに言及しましたし、日航機に追随して飛行するファントム機を目撃したという子供たちの証言も、時間的にありえず、記憶の書き換えが行われていた可能性が強いということにも言及してきました。

今回は、もっと強力な証拠により、この陰謀説がまったく根拠のない出鱈目であることを説明させていただきます。

方法論について

陰謀説によると、当日相模湾にいた海上自衛隊の護衛艦から発射された赤いミサイルが日本航空123便に命中し、そのために同機は墜落したということになっています。

経済アナリストの森永卓郎さんによれば、制御不能となった日航機に航空自衛隊のファントム戦闘機が密着し、最終的にはこれが撃墜したということのようです。

元日本航空のパーサーであった青山透子さんという方が、同僚が何人も亡くなったこの事故の原因に納得がいかず、日本航空を退職し、東京大学の大学院に進学し、博士課程まで修了して、同事故を告発する書物を何冊も書き、それを森永卓郎氏が絶賛しています。

森永氏によれば、東京大学大学院博士課程まで出ただけあって、執筆された書物は方法論も科学的であり、すべてが裏打ちされた事実に基づいているということです。

この点について、私見を申し上げます。

筆者に言わせれば、冗談言ってもらっては困るということです。青山氏の書物は、いずれも社会科学の方法論に則って執筆されたものとは到底言うことができません。事実に基づいているどころか、伝聞推定とご本人の想像(妄想)で埋め尽くされています。

これを科学的論文の方法論に基づくものと断定する森永氏の社会科学に関する認識のほどが知れます。筆者が論文の審査をしていたら、修士論文としても認められません。

取材せずに執筆

決定的なのは、海上自衛隊の護衛艦が赤いミサイルを発射して、それが日航機に命中したとしていながら、彼女は防衛省に取材をしていないことです。

なぜ筆者がそう断言できるかと言えば、彼女の文章がとても防衛省なり海上自衛隊に取材したとは思えない拙劣なものだからです。

彼女は日航機に命中したとされる赤いミサイルを「練習用ミサイル」という表現を使って呼んでいます。これは海上自衛隊の訓練支援艦が対空射撃訓練の支援をする際に飛ばす標的機のことを指しているものと思われます。確かにその標的機は赤く塗装されています。

筆者が、彼女が海上自衛隊を取材していないと断言するのは、彼女が「練習用ミサイル」と言っているからです。海上自衛隊に練習用ミサイルは存在しません。海上自衛隊では「訓練」と「練習」は別物なので、厳密にその用法が区別されています。したがって、もし彼女が海上自衛隊に取材していれば、そのことを教えられ、「訓練用ミサイル」と呼んでいるはずです。(海上自衛隊ではそのような表現すら取りません。ミサイルではないからです。海上自衛隊では、「標的機」と呼んでいます。)

また、著書中に米国元軍人へのインタビューなども記載されていますが、インタビューしている相手は、反戦軍人が集まって作っている会のメンバーの元下士官です。米軍の動きやその時点での判断について調査するのであれば、第5空軍司令部や座間の在日米軍司令部に取材すべきであり、反戦軍人の下士官の意見で米軍の軍人へのインタビューだとするのは筋違いも甚だしいと言わざるを得ません。

当時はベトナム戦争でメンタルダウンし、その後遺症に悩む元兵士が社会問題となっていた頃でもあります。したがって、反戦元兵士の団体は数多くありました。それらから事情聴取はするものの、日本にいる第5空軍や在日米軍司令部などにインタビューをしていないのは、そもそも論文を書く方法論を知らないとしか思えません。

そうなると彼女が東大の博士課程を修了しているということ自体の信頼性が揺るぎます。

当日、相模湾に海上自衛隊の護衛艦がいたのか?

さらに、これまでの多くの陰謀説が見落としている論点を指摘します。

どの説も基本的には当日相模湾にいた海上自衛隊の護衛艦「まつゆき」が発射したミサイルが命中したとしています。

これがそもそも根本的な誤りです。

確かに、当日、「まつゆき」が相模湾にいたことは、筆者も知っていました。筆者はこの問題のコラムの第1回で、当時第33護衛隊の護衛艦に乗り組んでおり、当日は伊豆七島を北上中で、明日は横須賀に帰投するという予定で、12日の夜は三宅島の東付近で日本航空機が遭難し、どこにいるのか不明という情報により、航空救難の準備をしていたと紹介しています。

隊司令が座乗する司令護衛艦でしたので、付近にいる航空救難艦艇部隊の指揮に任ずる必要があったため、所在艦艇をチェックしていました。近くにはその第33護衛隊の三隻以外には相模湾に「まつゆき」がいただけというのも承知していました。

筆者は「まつゆき」を航空救難兵力とせずに計画の立案にかかっていました。

なぜなら、「まつゆき」は護衛艦ではなかったからです。

当日、「まつゆき」は相模湾にいましたが、この船が海上自衛隊の護衛艦となるのは翌年の3月に引き渡しが行われてからであり、当日はまだ海上自衛隊に引き渡されていませんでした。同艦は石川島播磨重工の東京造船所で建造され、翌年3月の引き渡しを目指して最後の仕上げにかかっていたところです。

つまり、海上自衛隊の護衛艦ではなく、石川島播磨重工の船だったのです。

船が護衛艦になるまで

海上自衛隊の護衛艦は5年間かけて建造されます。

当初はドライドックの中や船台の上で建造されていきます。船体が出来上がったところで進水式を行い、以後は艤装岸壁に係留されて、武器の装備や内装の工事などが行われます。その時に「まつゆき」という命名が行われます。それまでは単に番号で呼ばれるにすぎません。その頃には、初代乗組員となる海上自衛隊の隊員が発令されて船に乗り込んできて、造船所の職員と一緒に作業をしていきます。初代艦長要員も着任しますが、その時点ではまだ艤装員長と呼ばれています。

4年経った頃から、海上を走ることができる程度に仕上がっていき、引き渡しの準備が始まります。海上に出て様々な試験を行い、仕様書通りの要求性能が出ているかどうかが確認されます。そしてすべての試験に合格すると最後に防衛省に引き渡されます。この時に行われるのが、引き渡し式及び自衛艦旗授与式です。

この式では、まず、会社側からその船を防衛省に納入する旨の宣言が行われます。そこで初代乗組員たちが隊列を組んで行進して乗艦していきます。彼らは後甲板に整列し、艦長が乗艦してくるのを待ちます。引き続き、防衛省の代表者(防衛大臣だったり、事務次官だったり、海上幕僚長だったりします。)から初代艦長に自衛艦旗が授与され、艦長がそれを掲げながら乗艦し、後甲板に移り、その場で自衛艦旗掲揚が行われます。同時にマストに掲げられていた社旗が降ろされ、名実ともに海上自衛隊の護衛艦となります。

そのあと、防衛省代表者に艦長が出航挨拶を行い、造船所職員に見送られながら母港へ向けて出港していくのが普通です。この時、初めて自衛艦旗を掲げて護衛艦としての航海を行うことになります。

それまでは、試験のために何度も出航しているのですが、まだ護衛艦として就役していないので、自衛艦旗ではなく日章旗を掲げて航海し、指揮も艦長ではなく、造船所のドックマスターが船長として取っています。

この時に行われる試験を公試と呼びます。

公試にはいろいろな種類があり、エンジンの出力を確認したり、仕様書通りの速力が出るかどうかを確認するのを機関公試と呼びます。また、武器を積んで、その武器が要求性能通りの動作をするかを確認するのは武器公試と呼ばれます。

8月12日当日、まつゆきが相模湾で行っていたのは、運動性能を確認する公試です。どの速力で舵を何度に取ると、船がどのくらい傾き、回転半径がどれくらいで円を描くかとか、どの速力から機関を止めた場合にどの程度の距離を走るのかなどを徹底的に調査し、艦橋要表というデータブックを作ります。艦長や各航海指揮官要員はその艦橋要表を勉強して、その船の運動特性を理解し、操艦の参考とするのです。

つまり、当日相模湾にいたのは護衛艦「まつゆき」ではなく、石川島播磨重工が防衛省に納入しようと最後の仕上げにかかっている「まつゆき」であり、海上自衛官の艦長が指揮を執っているのではなく、造船所のドックマスターが船長として指揮を執っていたのです。

また、乗っていたのは、初代乗組員となる海上自衛官たちと造船所で建造に当たってきた職員や、運動能力の公試に必要な下請け各社の社員や技術者たちでした。

しかも、武器公試ではないので、砲塔は装備されていても弾薬は積んでおらず、ミサイルランチャーは装備されていてもミサイルそのものはまだ搭載されていません。

そのような造船所やその他の会社関係の人たちが大勢乗っている船からミサイルを撃って民間機を撃墜するなどということができるかどうかをちょっと考えれば分かるはずです。

海上自衛隊に取材していれば、当日のまつゆきはまだ護衛艦ではなく、防衛省が引き渡しを受ける前の民間の船であったことが分かるはずです。

その取材をしていないから、そんな基本的なことを知らずに著書を執筆していますし、それ以後の国家陰謀説を唱える人々も、そのようなファクトチェックを全くしていません。

海上自衛隊の船だからと言って、何でも撃てるわけではない

付言すれば、青山透子さんが繰り返し述べている赤い練習用ミサイル(訓練支援艦が搭載する標的機)は、まつゆきから発射することはできません。

まつゆきは確かに対空ミサイル搭載艦でシースパローランチャーを搭載していましたが、そのランチャーから訓練支援艦の標的機を発射することはできません。コントロールする指揮システムが全く異なるのです。

ミサイルはその種別ごとにランチャーと指揮装置が異なり、また管制するシステムも全く異なるので、簡単にどれからでも発射できるようにはなっていません。

最近のイージス艦が装備している垂直発射管からは対潜ミサイル、弾道弾迎撃ミサイル、対空目標迎撃ミサイル、隊水上目標攻撃用ミサイルなどを発射できるようにしていますが、垂直発射装置ではないミサイルランチャーからは特定のミサイルしか発射できません。

つまり、「まつゆき」から赤い「練習用ミサイル」は撃てないのです。

海上自衛隊にちょっとでも取材すれば、あるいは元海上自衛官にちょっとでも質問すればそれらのことは簡単に分かるはずなのですが、青山透子さんはその努力を一切していません。

つまり、森永氏が絶賛するように方法論に忠実に学術論文のように書かれたものでもなければ、ろくな取材も調査もしていない、ただの伝聞推定と妄想だけで書かれた書物にすぎません。

最後に

森永氏の疑問は、これだけの疑問が呈されているのに、なぜ国は再調査に応じないのかということなのですが、これまで4回のコラムをお読みになって、馬鹿々々しくて再調査などする気にもならないというのが本当のところであるとご理解いただけたかと存じます。

以上で、この問題への言及を終えたいと思います。

たしかに筆者が触れていない論点はたくさんあるかと考えます。それは筆者の能力では責任のある言及ができないテーマにわたっているからであり、今回は筆者がその知識や経験で、これはいかがなものかと断じたテーマについてのみ言及しています。他のテーマでもこの事故には不自然なことが多いということであれば、それを追及されるのは結構なのですが、そもそもの前提となる海上自衛隊の護衛艦が相模湾にいなかったこと自体を知らないような方々の議論が傾聴に値するかどうか疑問に思っています。

この問題をメールマガジンではなく、専門コラムで取り上げた理由をご説明しなければなりません。

筆者が専門コラムを執筆するにあたり、方法論にこだわっていることは皆様お気づきかと存じます。

その筆者から見た場合に、森永卓郎さんのような影響力を持っている方が、方法論に言及され、しかし、そのおっしゃっていることに反して方法論も出鱈目な陰謀説がまかり通って延々と続いていくことに我慢が出来なかったということが大きな理由ではありますが、もう一つ、このコラムで重要視している意思決定、リーダーシップ、プロトコールの三大要素のうちの一つである「意思決定」に関し、心理学的な考慮が必要であることを皆様にご理解頂きたかったという理由もあります。

鮮明と思っている記憶自体が本人が意識していないにも関わらず書き換えられてしまうことがあること、大勢が証言しているから正しいとは必ずしも言えないということなど、社会科学上の問題を考えるのには非常に面倒な要素が無限大にあります。

私たちは、単に自分の経験的な事実のみではなく、社会心理学などの研究成果を絶えず意識し、人間という複雑怪奇な生き物を扱っていかねばなりません。

そのような筆者の思いをご理解頂ければ幸甚に存じます。