専門コラム「指揮官の決断」
第417回指揮官は自らの決断を後悔してはならない
戒厳令発令
韓国の戒厳令の発令にはびっくりしましたね。
まともな民主主義国家で戒厳令が発令されるのは、戦争が勃発したときだけだと思っていましたので、ついに北朝鮮が37度線を越えてなだれ込んできたのかと思いました。
ところが、米軍の動きを見ても、特別に騒いでもいなかったようなので、何が起きたのかをいぶかしく思っていたところ、あっさり戒厳令が取り下げられたので、余計に不思議に思いました。
結局、7日午前、大統領が国民にテレビで謝罪し、今後は党と政府が共に動き、二度と戒厳令などには至らないと声明して終わってしまいました。
つまり、単なる「殿、ご乱心」だったということです。
当コラムは危機管理の専門コラムとして、意思決定、リーダーシップ、プロトコールを柱に議論を展開しています。
この度は、指揮官としての意思決定やリーダーシップが問われる事態であり、当コラムでも関心を持たざるを得ません。
本音としては、韓国などどうでもいいのですが、あくまでも危機管理上の議論のテーマとして取り上げます。
国民に謝罪したところを見ると、韓国の尹大統領は戒厳令を発したことを後悔しているのでしょう。弾劾裁判にかけられると、最悪の場合は、国家に対する反逆の罪で死刑を宣告されるかもしれません。
現在の少数与党は政権を失い、前政権のような反日色の強い過激な政権が誕生するでしょうから、日韓関係は難しくなるでしょう。
筆者が、韓国などどうでもいいと述べたのは、それがあるからです。
韓国には外交の一貫性を貴ぶという国際関係上の常識がないので、政権が代わるたびに対日政策が変わりますし、対外公約などあの国には無いにも等しく、信頼関係を維持することができません。
そもそも、射撃管制用レーダーの照射事案については、謝罪どころかその事実さえ認めていません。
反日政権が樹立されれば、それが繰り返されるどころか、もっと酷い結果を生みかねません。つまり、前回はFCレーダーの照射及びロックオンだけでしたが、引き金が引かれるおそれも無しとはしません。
海上自衛隊は、韓国政府の態度に納得はしていませんが、政治によって無理やり友好関係を取り戻したふりをしています。日韓友好議員連盟などという団体に所属する国会議員たちの圧力です。この連中は、自分たちの利権のためには国益などどうでもいいと思っている連中なのでしょう。
韓国は日本を観艦式に呼んでおいて、自衛艦旗を降ろして、商船と同じ旗を掲げてこいと平気で要求するような国です。
筆者は、韓国海軍の軍人に友人がいますし、韓国系米国人の友人もいます。連中と付き合う時に嫌な思いをすることも無く、同じ東洋人として共有するメンタリティもあり、楽しく盃を交わすことができています。ところが、国家となると一変します。
これは中国もロシアもそうです。個人と付き合う分には問題ないのに、国家となると信頼することができないという思いをこれらの国に持ってしまうのはなぜだろうとよく考えます。
なぜ後悔してはいけないのか
話を戻しましょう。
今回は、指揮官は自らの決断を後悔してはならないということを語りたいと思っています。
何故、後悔してはならないのでしょうか。
指揮官の決断は重いからです。
その重い決断を軽々しく行ってはなりません。
決断を誤ると、場合によっては多くの人命が失われることだってあります。
指揮官は反省すれば済むかもしれませんが、失われた命は返りません。
韓国大統領は後悔しているのでしょうが、覆水は盆には返りません。
筆者が若いころ、まだ海上自衛隊の若い幹部だった頃、旧海軍出身のいろいろな方々から話を伺うことがありました。
その頃、すでにかなりお年を召した方々は、戦時中にそれなりの階級にあり、いろいろな部隊で枢要な配置に就いていた方もいらっしゃいました。
それらの方々は二通りのタイプに分かれていました。
淡々と自分が体験したことを語ってくれる方には、私たちの方からいろいろな質問をしました。その時、どういう気持ちだったかとか、戦場においてどうやって恐れと戦ったのかという、我々実戦の場を知らない者が戦場に出るときの心構えをどうやって作っていくのかの参考にしたかったのです。
もう一つのタイプは、自分がいかに重要な役割を演じていたのかを自慢する人たちでした。特に大きな作戦を実施した部隊司令部の参謀だった方に多かったのがこのタイプでした。
彼らの言い分で筆者が快く思っていなかったのは、「あの作戦は、私のミスでした。」などと平気で言う奴でした。
筆者に言わせれば、「あなたのミスで、何人が死んだというのか。ご遺族にそれが言えるのか?」ということです。
軍隊においては、意思決定は誤ってはならず、したがって、後悔してはなりません。
正しい意思決定をしても戦いに負けることはあります。
どのような条件でも、いかなる状況でも勝てる作戦などはありません。最善の意思決定であっても、敵も正しい意思決定をして、それなりの兵力を運用していればこちらが負けることだってあるでしょう。
しかし、その場合の意思決定には「後悔」はないはずです。
それを自分が、その作戦の中核であったことをひけらかすために、「あれは私のミスでした。」などと言ってのける神経が理解できませんでした。
そのうちに部隊の教育訓練計画を担当するような配置になったとき、そのような人物に例年来ていただいて講話をしてもらっていたにもかかわらず、筆者はそれを良しとしませんでした。「あんな話を聞いても百害あって一利なしなので、今年は呼ぶな。」として、講師を別の方にお願いしていたのですが、そういう人に限って、「今年は呼ばれていないが忘れてないか?」という問い合わせがあったりしました。
他に自慢話を聞いてくれる場所がなかったのかもしれません。
トップは最善の意思決定をせよ
トップは意思決定を誤ってはなりません。結果的に上手くいかなかった意思決定であっても、その時点では最善の、後悔をしなくて済む意思決定でなければなりません。
常に成功する意思決定をしなければならないということではありません。
それができればそれに越したことはありませんが、そんなことは無理でしょう。
したがって、少なくとも、後悔しない最善の意思決定をすべきだと弊社は主張しています。
最善の意思決定とは、結果的には正しくなかったかもしれないが、決定の時点では最善のものであり、その決定に後悔しない意思決定のことです。
どうすれば後悔しない意思決定ができるか
それでは、どうすればそのような意思決定ができるようになるのでしょうか。
弊社では、論理的な意思決定を行うための手法のコンサルティングを行っています。この手法をマスターすることによって、きわめて論理的な意思決定を行うことができるようになります。
また、その決定が実効性のあるものであるかどうかを確認することができる図上演習という手法のコンサルティングも行っています。
この論理的な意思決定と、その実効性を確認する図上演習によって、ほとんど誤りのない意思決定ができるようになります。
問題は、マーケットを巡る争いや戦争のような競争の戦略で戦わなければならない場合、相手もその論理的な意思決定手法を用い、図上演習によって検証している場合にどうなるかです。
多分、凄まじい戦いになるでしょう。
つまり、相手も正しい意思決定をしている場合には、必ずしも勝利を得ることはできないかもしれないといことです。
しかし、そのような場合でも、少なくとも後悔しない意思決定になるはずです。
本当にそうでしょうか?
負けても後悔しない意思決定なのでしょうか?
そこが悩ましいところです。
これという正解を筆者が持っているということではありません。
多分、修練と修行しかないと思っています。
平安時代の天皇と異なり、現在の経営者はいきなり経営トップになるということはありません。それなりの下積みを経験してトップになっていきます。
大企業の創業家に生まれたりすると、それなりに早くトップに抜擢されるかもしれませんが、いくらかの下積みは経験させられるようです。
その貴重な期間に、できるだけいろいろな経験を積み、自分がトップならどう判断するかを必死に考えるという習慣をつけることです。
また、そのような中で、末端はそのトップの判断をどのように受け止めているのかを感じ取り、トップの決断と末端の受け取り方の間に横たわるギャップがいかなるものかを見つめることも大切です。それが現場の下積みを経験するということの意味のはずです。
自衛隊の幹部候補生にはそのような覚悟が要求されます。
少なくとも、トップの経営陣は、後悔しない意思決定を行い、そして、一度下した決定の結果には後悔せず、淡々と責任を取る、という胆力を持つ必要があり、そのために必要なのは修練と修行です。
当コラムは、元々社会科学の方法論にこだわったコラムなのですが、今回は精神論に終始しました。科学だけでは社会は乗り切れません。
精神論も時には必要だと思っています。