専門コラム「指揮官の決断」
第476回コラム コロナ禍に学ぶ危機管理の発想法 その10
承前
コロナ禍を例にとって、危機管理が必ずしも専門的知識がなくても、論理的に考える発想があれば、事態の本質をある程度看破できることを9回に渡って示してきました。
当コラムで何度となく主張してきたことですが、リスクマネジメントは、様々な領域の専門家の知見が必要ですが、危機管理はそうではなく経営トップの覚悟にかかっています。
つまり、トップが想定外の事態に際して毅然と対応し、組織の置かれた環境変化の本質を看破し、その環境変化の中に危機だけでなく機会を見出し、事業を躍進させるのが危機管理だと主張してきました。
環境の変化を観察するに、論理的な思考さえできれば、専門知識はそれほど重要ではありません。
この一連のシリーズにおいても、本当はもっと語りたいことがたくさんあるのですが、それらは、少し専門的な知識・経験がないと理解できないので、誰にでも分かるというわけにいかないため言及しませんでした。
例えば、最初に緊急事態宣言が出された際の、新宿駅前や渋谷交差点の人出の考え方などに言及しましたが、あの議論は、基本的には分子の衝突理論をもとにしていますが、しかし、二人しかいない社会を考えると一人、つまり50%を外出しないようにすれば、接触は100%無くなることを考えれば、誰にでも、当時の報道がいかに馬鹿げていたかが分かります。
テレビという媒体
これまでの議論を総括します。
筆者はメディアと、そこに登場する「専門家」と言われる人たちの出鱈目さを指摘してきました。
メディアは、真実を社会に知らせようとしているのではなく、視聴率をいかに上げるか、購読数をいかに伸ばすかが目的ですので、その目的に資する内容を取り上げます。
筆者のグループが、ある省庁の依頼で、統計的手法を駆使して感染者数とその及ぼす影響についてのシミュレーションをしていることに気付いたテレビ局から連絡がありました。
アシスタント・ディレクターという人から、「こういう質問をします。こういう主旨でお答えください。それを裏付ける資料をご準備ください」という連絡で、プロジェクトに参加していたスタッフが一存で断ってしまいました。筆者たちの当時の結論とまったく異なっていたからです。
そのうちに、ディレクターご本人から連絡があり、スタッフがいくら説明しても理解してもらえず、責任者に直接話す、と言い出したらしいので、筆者が電話に出ました。
スタッフが怒るとおり、統計学をまったく理解できず、相加平均と相乗平均の違いも理解しない奴で、そもそも数字を扱うことなど無理な連中でした。
そういう連中が番組を作っていたんです。出鱈目な番組になるはずです。
彼は「社会に警鐘を鳴らさなければ、この国は大変なことになるので、それをサポートするのは、あんたたちの責任だろう」と言うのですが、筆者たちに言わせれば、彼らは「警鐘を鳴らしている」のではなく「不安を煽っている」だけです。不安を煽ると、視聴率が稼げるのです。テレビが「大丈夫ですよ」と言うと、視聴者は重苦しい話題を避けて、「お笑い」に流れてしまうからです。不安を煽ると、その解決策を見出そうとして、その番組に戻ってくるんです。
筆者たちも警鐘は鳴らすつもりでしたが、テレビと異なり、不必要に委縮せず、可能な限りの日常生活を維持し、しっかりとした感染対策をすべきだと思っていました。
筆者たちが、テレビに出てくる専門家たちの新型コロナウィルスの致死率が出鱈目であることを看破したのは、最初の緊急事態宣言の1年後であり、このテレビからの依頼があった時には、それほど専門家たちの能力が低いとは考えていませんでした。
しかし、当時の筆者たちのシミュレーションでも、それほど大騒ぎする必要はない、という結論を持っていましたので、その旨伝えて出演を断りました。ディレクターは最後に「せっかくテレビに出してやろうとしているのに、何なんだ、その態度は」という捨て台詞を残して電話を切りました。
メディアというのは、そういうものです。
つまり、真実の報道などどうでもよく、事態を理解する能力もない者が、視聴率を上げるために不安を煽るだけの内容を作っていたのです。
それが世論を作り、政治を動かして、出さなくていい緊急事態宣言を出し、夜間の飲食店の営業自粛を要請し、カフェもテーブルをパーティションで区切って、対角線に座らせるということをやったお陰で、感染者を増やしてしまったのです。
新聞はどうなの?
新聞も同様です。新聞は、テレビのようにディレクターが電話で捨て台詞を残すというような真似はしませんでしたが、担当の若造の記者がいろいろな質問を持って取材に来ました。
ところが、困ったことに、その質問自体が見当はずれで、どう答えていいか分からない質問でした。そこで、彼に分かるように説明をするのですが、どうも理解してもらえません。
ある時、プロジェクトスタッフが東京大学の研究者チームの論文について、説明しているところを見ていたのですが、その新聞記者は英語が読めず、また、算数もまったく理解できないようでした。彼は「私は文系なので」としきりに言い訳していましたが、説明していたスタッフも、その指導をしていた筆者も文系学部出身です。「貴方が文系なのは分かるけど、高校で数学とか英語とか勉強して卒業したんでしょ?」というのがスタッフの言い分でした。
その後、いろいろなメディア関係者に会いましたが、コロナ禍を担当する人たちは、社会部が多く、何故かほとんど私立文系出身者でした。
社会部記者というのは、世の中で起きている様々な事象から芸能人のゴシップまで担当しなければならないので、怖ろしく広い一般的な知識を持っていなければならないのでしょうが、英語と算数は苦手なようです。
ところが、コロナ禍を読み解くには、諸外国の情勢や論文を調べなければならず、また、連日更新されるデータを読み解かねばなりません。社会部記者には荷が重いのかもしれません。
とにかく、若造の記者は熱心にやってきて、いくら説明しても理解できないにも関わらず、多分、上司に言われてきたのでしょうが、いつも新たな見当違いの質問を持ってきます。
連中の勘違いは、筆者たちのグループは、国の組織ではないということを理解していないことです。国民に警鐘を鳴らすのは筆者たちの責任である、というのです。
筆者は元国家公務員ですが、現在はビジネスの経営者です。契約の履行以外の責任を負っていません。まして、新聞社の理解力の乏しい記者を教育する責任などまったくありません。
しかし、その記者は、何時間も粘り、珈琲を飲み、また日を改めてやって来るのです。ビジネスの邪魔なんです。
何回目かに、筆者は「君の直属の上司を連れてこい、じっくり分かるように講義してやる。その代わり、授業料を1時間当たり5万円請求する」と言い渡したら、それを最後に来なくなりました。
ジャーナリストの質が下がったのか?
彼らは取材だと言えば、他人のビジネスの邪魔をしても平気なのです。
その程度のデリカシーしか持ち合わせない連中が紙面を作り、番組を作っていたのですから、真実からはかけ離れた報道になるのも仕方ありません。マスゴミと呼ばれる所以がここにあります。
筆者は海上自衛官であった父が、筆者が防衛大学校や商船大学に進むのを好まず、新聞記者になることを望んでいたのを知っていました。しかし、筆者は新聞記者というのは、最低の仕事だと考えていましたので、大学生時代にマスコミへの就職は考えたことがありませんでした。
何故でしょうか。
昔、瓦版屋は自ら「ていへんだ、ていへんだ」と言って不安を煽って瓦版を売っていたのを知っていたからです。不安を煽るのが仕事で、それを自ら「底辺だ、底辺だ」と言っていたのが、瓦版屋の本質だからです。
今でもスタッフに対しては「新聞記者」と言わず、「瓦版屋」という言い方をしますので、筆者のオフィスでは新聞は「瓦版」、テレビは「紙芝居」と呼ぶようになってしまいました。
メディアというのは、その程度のものだというのが、筆者の認識です。
まとめ
メディアに連日出演してくる「専門家」というのは、テレビ局が「こういう質問をしますから、こういう方向でお答えください」と言われて、その通りの答えをする人たちです。
だから、感染症の専門家と言いながら致死率の計算もできないのです。
専門家でなくてもコメントできるでしょ?
ちなみに、致死率の計算は統計学の知識は必要がありません。
割り算さえできれば計算できます。
ただ、感染者数と死者数の内訳を正しく理解していることが必要なのですが、それすら、毎日のニュースを観ていれば理解できる程度のものです。
それが計算できないのですから、まともな素人以下の能力の人たちだったということです。
過去9回に渡って、コロナ禍を題材にして、危機管理は専門的な知識・経験がなくても本質を理解できると述べてきました。
テレビに出てくる専門家が素人以下なのですから、専門的知識・経験は必要ありません。むしろ邪魔なのでしょう。
健全な社会常識と論理的思考力と何かがおかしいと感ずる直観力、組織とそこにいる人たちを思う心があれば、危機管理はできます。
これからも、当コラムでは、様々な角度から、危機管理の考え方をお伝えしてまいりますので、参考にされ、想定外の事態に毅然と対応して頂きたいと思っています。
健全な社会常識は当コラムでは育ちません。皆様の社会経験などから育てて頂くようお願いいたします。論理的思考力と何かがおかしいと感ずる直観力は、当コラムを読み続けて頂ければ、ある程度育っていきます。組織とそこにいる人たちを思う心については、皆様の人生観そのもので、当コラムがどうすることもできません。
どうですか?専門知識・経験なんか必要ないでしょ?
