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専門コラム「指揮官の決断」

第162回 

漂流 理念なき行政の末路

カテゴリ:意思決定

英語民間試験導入先送り決定

文部科学省が英語民間試験導入の延期を決定しました。

この発表をする萩生田文科相の弁にびっくりしました。

曰く「経済的な状況や居住している地域にかかわらず、等しく安心して試験を受けられるような配慮など、自信を持ってお勧めできるシステムにはなっていない。」のだそうです。

文科省大臣が一週間前に身の丈に合わせて頑張れなどと言っていた制度が実は文科省自体が自信を持てない制度だったということです。

もしBSフジの報道番組の中で行われたこの発言が問題とならなかったら、文科省はそのいい加減な制度を見切り発車させていたということでしょう。

国の将来を担う人材の教育がこの程度の取り組みで行われていること自体、寒気のする思いです。

文科省は再検討を行って2024年から新制度を実施するということで、検討に1年かけて結論を出すということです。

そもそもこの議論は2013年に教育再生実行会議の提言を受けて検討されたもので、英語民間試験の導入は2年前に決定されています。

決定後、全国の高校校長がこぞって反対の意思表示を行ってきたにもかかわらず、文科省は実施に踏み切る直前でした。多くの高校では対策を進め、かつ、手続きまで始めていた学校も少なくありません。

つまり、この制度は少なくとも5年間の検討が行われているというものです。

5年かけて検討して、自信を持ってお勧めできるものではないのに実施に踏み切ろうとしていた無責任さにもびっくりですが、5年かけてまともな検討ができなかったのに、今後1年で結論を出すという自信はどこから来るのでしょうか。

文科省に振り回される日本

私たちの社会は文科省の思い付きにいいように振り回されています。

文科省の度重なる指導要領の見直しの結果としてのゆとり教育はどう考えても効果よりも弊害が大きく、いつのまにかうやむやになってしまいました。

私はゆとり世代として括ってしまうことには懐疑的で、必ずしも弊害だけだったとは思いませんし、それ以前の教育が良かったとも思っていません。

ただ、社会に与えた影響を考えると、確かにある一定の傾向を持つ若い人が増えて、それまでの社会が持っていた価値観などからずれてしまって生きていきにくい世代が生じたということは言えるかと思っています。

当時、働き方改革はまだ緒についておらず、したがって、学校で「ゆとり」に慣れた若い人たちが世間の荒波に翻弄されてしまったということなのでしょうが、社会情勢を見ない教育改革にどのような意味があったのかが問われなければなりません。

英語に関しては、日本人の語学力の低さが問題となり、小学校において英語教育が始められることになりました。

私は教育の専門家でも語学の専門家でもありませんし、英語に関しては劣等生でしたので深く言及するつもりはありませんが、しかし、素人から見ると、中学・高校の6年間で身に付かなかった語学が、小学生から始めたからといって身に付くとは到底思えません。

時間をかければ語学ができるようになるとは思えないからです。

かつて海上自衛隊で連絡官として米国に駐在していたとき、退役した海軍の軍人に米海軍の語学教育について聞いたことがあります。

彼は大学を卒業してすぐに海軍少尉となりサンフランシスコに開設された海軍の日本語学校に入校させられたのだそうです。

入校式が終わったとたんに英語の使用が禁止され、校内では日本語以外の使用が禁止されたということでした。まだ日本語教育が始まっていないのです。

その日の授業では朝の挨拶の仕方と朝食の注文の仕方を教えられ、翌日にABCの試験(多分、あいうえおの書き取りでしょう。)が行われることが申し渡され、必要な参考書等が渡されたのだそうです。

結局、ほとんどの学生が徹夜してひらがなを覚え、翌朝の食堂では注文の仕方を誤った学生にはまともな朝食が出されず、朝の挨拶ができなかった者は教官に欠礼した罰でグランドを何周も走らされたということでした。

これらの学生は3か月後には卒業して太平洋戦域に散らばり、以後、日本軍の通信の傍受にあたることになりました。

3か月で無線を聞き取り、電報を読むことができるようになったのです。

多分、語学教育とはそういうものなのでしょう。

必要性が痛感されない限り、24時間英語に囲まれているという環境でなければ身に付かないのではないかと思います。

差し迫った必要がないからbe動詞、have動詞、一般動詞、現在完了形、過去完了形という順番で進んでいく教育が行われ、日常会話としては不自然な授業になってしまうのでしょう。

一体どういうシチュエーションで“ I am a boy. ”などという会話が行われるというのでしょうか。

“ How do you like your eggs? “ “ Scramble, please.” の方がよほど自然ですし、役に立ちます。

大学はリベラルアーツを

文科省の考えにもう一つびっくりしたものがあります。

数年前、文科省の役人と話をしていたときに聞いたのですが、旧国立大学をGとLの二つに分けるというのです。

どういうことかというと、旧帝大系の大学をGとして、グローバルに活躍できる人材の育成を目指し、その他の大学をLとして地元の産業界等で即戦力になる人材を育てるというのだそうです。

私は大学教育における実学性が必要でないとは思っていません。しかし、それがメインである必要はないかと考えています。

大学教育が重視すべきはリベラルアーツであり、実学を目指すにしても即戦力を目指すような実学ではなく、より基礎的な考え方を固める教育であるべきだと考えています。

即戦力になるような知識はすぐに使えなくなってしまいます。

いい例がコンピュータのプログラムです。

私が大学で受けたコンピュータのプログラミングの教育はFORTRANでしたが、この知識・経験が役に立ったことは一度もありません。しかし、理論経済学で数学を鍛えられた経験はその後長きにわたっていろいろな場面で活きました。

多分、大学教育などは学問に臨む姿勢を教えることに意義があるのだろうと思っています。私が大学院に進学した時、進学を進めてくれた恩師から言われたのは、博士前期課程(修士課程)は方法論を学ぶ場であり、本当の学問は後期課程(博士課程)から始まるというものでした。

大学院ですらそうですから、まして学部においておやです。

即戦力などは専門学校に任せた方が遥かに効率的で、教え方も上手でしょう。

理念なき行政は漂流と同じ

どうも文科省の打ち出す新たな改革は、単なる思い付きの域を超えていないようにしか見えません。

それではなぜ文科省の打ち出す改革がこうお粗末なのかということですが、理由は明らかです。

理念がないからです。

私は危機管理を専門としていますが、寄って立つ立場は組織論であり、意思決定論やリーダーシップ論の観点から議論を展開することが多いかと思います。

私が意思決定問題で重要視しているのは、意思決定の目的を誤らないことです。そのためには絶えず自らの使命に立ち返って意思決定を行う必要があり、その使命が記述されているのが理念です。

メンバーは常に理念に立ち返り、自らの行動を顧みる必要があり、意思決定に際してもその理念から導き出される使命を達成するかどうかという観点から決定を行う必要があります。

したがって組織は理念をしっかりと掲げる必要があり、ウェブサイトを持っている会社は、考え抜かれた理念をホームページに掲げるのが普通です。

私は商社マンであった頃から、新たな会社と取引を考える際、その会社の理念をよく読んでから仕事に臨んでいました。

政治においても、政党は綱領を示す必要があるはずですが、この綱領をまだ作っていない政党があるのには呆れてしまいます。

各省庁も自らの行政政策をどのように施行していくのかをウェブに掲げています。防衛省のウェブを見て頂ければお分りになりますが、わが国の防衛政策についての防衛省の考え方が示されています。

一方の文科省のウェブを見て頂ければ他省庁との違いが一目瞭然です。

開いてびっくりするのは、そのホームページの雑然とした見辛さです。

http://www.mext.go.jp/

どこを見たらいいのか戸惑うほど整理されていません。

そして、肝心な文科省の教育に関する考え方を探してもよくわかりません。

いろいろな法律や提言を受けた検討状況などにそれぞれの方針や考え方が示されてはいますが、それは文科省としての対応方針であり、理念ではありません。

我が国の教育はこうあるべきという大上段に構えた議論が見当たらないのです。

これでは各担当が勝手バラバラに思い付きで政策を打ち出すわけです。

もし文科省がこの状態を、何にも縛られず自由な発想で政策を打ち出すことができる仕組みだなど考えているのであれば即刻解体すべきですし、そうでないのなら本当に何の理念も覚悟もなく思い付きの行政をやっているにすぎないということになります。

繰り返します。

意思決定においてもっとも重要なことは、その決定の目的を間違わないことです。目的を間違わないためには、常に自らの使命が何なのかを見つめなければなりません。

メンバーに組織の使命を理解させるためにはトップは理念を掲げる必要があります。

理念なき組織は的確な意思決定をすることができず、常に場当たり的な決定に終始し、結局漂流を続けるしかないのです。

我が国の将来を背負う人材が、そのような省庁によって育てられていることを思うと暗澹たる気持ちになります。