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専門コラム「指揮官の決断」

第190回 

職務への忠誠

カテゴリ:危機管理

検察庁法改正に関する議論に対する違和感

前回、当コラムで検察庁法の改正案について触れました。

現政権は節操のないことに世論の高まりを見て恐れをなして早々に撤回してしまいましたが、大きな議論を呼びました。

前回のコラムの中では検察庁法の改正について賛成とも反対とも申し上げていません。ただ、この問題を巡るネットや報道のあり方、論点に違和感があるということを申し上げたにすぎません。

何故違和感があるのでしょうか。

もちろん、三権分立の観点から法務大臣や内閣が検察官の人事に介入するのはおかしいという議論に違和感をもっているわけではありません。この議論は明確な誤りです。検察官は行政官であって、行政規律に服さねばなりません。したがって、この程度の認識の反対論については議論する気にもなりません。

この法律の解釈を巡って、閣議でこれまでの解釈を強引に変更してしまったことをもって立法権の侵害であると国会が怒るのならまだ分からないことはないのですが、司法権の侵害などという発想はどこから出てくるのか理解に苦しみます。

違和感があるのは、内閣に選別的な定年延長に関する権限を持たせることが、検察官の職務の独立性を侵すという議論です。

検察官の職務の独立性を担保しているのは検察庁法第14条であり、法務大臣は「検察官の事務に関し、検察官を一般に指揮監督することができる。」としつつ、但し書きをおいて、「個々の事件の取調又は処分については、検事総長のみを指揮することができる。」として、法務大臣の指揮権は個々の検察官には及ばないことが明記されています。改正案はこの条文を改正しようとはしていませんでした。

検察官はこの14条但し書きを伝家の宝刀として職務を遂行しています。

つまり、検察官の職務の独立性は保たれています。

検察の独立は脅かされるのか

しかしなお検察官の職務の独立性が侵されると主張する人々は、定年延長をチラつかされると検察官は政権に迎合してしまうだろうと考えているのでしょう。

これほど我が国の検察官を侮辱する主張はありません。強いて言えば、この法案の提出理由の説明を求められた森法務大臣が東日本大震災に際して検察官が国民を置いて先に逃げたと発言したものがありますが、これはまともに受け取る必要など微塵もない妄言でしかありません。

定年延長をチラつかされて尻尾を振る検察が全くゼロかと言われればそうでもないかもしれませんが、無視して差支えない範囲のはずです。

私は大勢の検察官と知り合いであるわけではありませんが、ある時、親しく数人の検察官と一緒に勉強会をしたこともあり、また、検察官出身の方々にいろいろと教えて頂いたことがあります。したがって、彼らの気風の一部を垣間見てきたとも言えるかもしれません。

検察官とはどういう人種なのだろうか

検察官に特徴的なことが4点あります。

まず、要点把握がおそろしく早い。彼らに長々と説明する必要はほとんどありません。結論を先に述べるだけで、理由の説明が要らないことの方が多かったように思います。

第2に、恐ろしく酒に強い。私より弱い検察官に会ったことはありません。つまり下戸はいないということです。彼らの飲み方は暴力的で、どう考えても肝臓がアルコールを分解しているとは思えず、飲んだお酒は肝臓を通らずに排出しているのではないかと疑っています。

検察官官舎には新聞記者などが夜討ち朝駆けで訪れてくるそうですが、たいていは飲みつぶされてろくなニュースネタはつかめないようです。あるいは、検察が意図的にリークする情報をつかまされて帰るのがオチということです。

第3に、麻雀のレートが凄まじく高い。私の感覚ではどう考えても違法な賭博が開帳されているのではないかと思うのですが、基本的には彼らのレートを超える賭け事が摘発の対象になるのだそうです。検察は常に正義なのです。

そして最後に、恐ろしく正義感が強い。正義感が強いからこそ、同じ司法試験に合格して司法修習生となっても、弁護士にも裁判官にもならず検察官の道を選んだ人たちです。

彼らには在職中には身分保障が与えられ、かつ職務の独立性が法律で担保されていますが、それより何よりも強いのは彼らはたとえ検察官を退職しても、法曹資格があるので弁護士に登録出来ることです。

検察の人事に介入することが検察の独立性を損なうという議論は巨悪と戦う検察を応援しているかのごとく見えますが、これほど検察官を愚弄する主張はありません。正義感だけで仕事をしているような検察官たちに、人事をチラつかされると政権に尻尾を振るようになり検察官の独立性が保てなくなるなどというのは、検察官に対する最大限の侮辱です。私が個人的に知っている検察官や元検察官は極めて少数ですが、昇進をチラつかされて節を曲げるような輩は一人もいないと信じています。

何が彼らを突き動かすのか

何が彼らを支えているのでしょうか。

彼らが基本的に持っている正義感と職務への忠誠心です。

公務員は採用になると服務の宣誓という宣誓文に署名をしなければなりません。職務に忠実に公共のために働くということを宣誓するのです。これは強制ではありません。宣誓を強制することは内心の自由を侵すことになります。しかし、どうしても公務員になりたい者はこの宣誓を行わなければなりません。これは内心の自由の侵害ではありません。

特殊な職務に就く公務員の宣誓は一般公務員の宣誓とは異なる宣誓であることが普通です。

警察官、海上保安官、自衛隊員などは一般公務員とは異なる服務の宣誓を行うことになります。

特に自衛隊に入隊しようとする者が行わなければならないと自衛隊法に規定されている宣誓には恐ろしいことが書かれています。「私は、わが国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行にあたり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います。」となっています。

「事に臨んでは危険を顧みず、身を持って責務の完遂に務め」とあります。知ったかぶりの好きな評論家たちは、この一文をもって自衛官は職務遂行中に生命の危険が生じても文句を言えないのだと解説しますが、まったくの誤解です。

この文言は、例えその任務に出ると生命を失うかもしれないと分かっていても、それが与えられた自分の任務であれば責任を持って遂行するということなのです。

評論家には、任務遂行中に生命を落とすことも覚悟するということと、その任務に出れば生命を落とすかもしれないが、しかしそれでも自分の任務として捉えるということの覚悟の違いが理解できないのです。

このような文言が入っている公務員の服務の宣誓は他にありません。

それでは検察官はどのような服務の宣誓をするのかと言えば、特別なものはないのです。一般の国家公務員が行う宣誓が要求されるだけです。検察庁法にも検察官の特別な服務の宣誓についての規定はありません。

にも関わらず、彼らは凄まじい正義感を持って時の権力と戦うことも厭わずに勤務しています。しかも、彼らが定年延長をチラつかされて権力に尻尾を振るということはありません。これは彼らの正義感と職務に対する忠誠心のなせる業です。

そうであれば、一般職の国家公務員には認められる特例の定年延長が検察官だけに認められないのは不具合かと考えます。

検察官の定年延長が必要な場合がある

理由はいくつかあります。

検察官は司法試験を通ってこなければ任官できず、それほど大勢いるわけではありません。数少ない検察官の中には特殊な専門的知識や経験を持った人材がいて、その時期にその知識・経験が必要とされる場合があります。それを活かせないのは損失です。かつて、国連海洋法条約がジュネーブでの国際会議で議論されていたとき、外務省や海上保安庁には戦時国際法などの専門的知識を持った人材がおらず、海上自衛隊で長らくその研究をしてきた海上自衛官が外務省の要請でその国際会議に出席し、結果的に日本の領海を大きく広げることに成功したのですが、その海上自衛官についての定年延長が検討されたことがありました。ただ、それ以前に国連海洋法条約が締結されたので延長の議論が不要となりました。自衛隊に関してはこのように特定の知識・経験・技能をもった人材が必要となることがあるため、現在では予備自衛官制度が活用されていますが、検察官にはそのような制度はありません。

また、検察官は司法試験に合格して司法修習生を経て検察官に任官しますが、一般国家公務員が在学中に採用が決まって卒業するとすぐに入省してくるのに比べ、任官時期が遅くなるのが普通です。

特に昔と異なり、法科大学院を修了することが求められる今の制度では、入省が4年ほど遅くなるのが普通であり、公務員としての勤務期間がその分だけ短いという問題もあります。

検察の独立と定年は無関係

さらには、定年延長は検察官の独立性とは基本的には無関係なのですが、一般論として検察官だから政治がコントロールしてはならないということにはなりません。巨悪と戦う検察の独立性はもちろん重要ですが、それは検察庁法第14条により担保されます。一方で、検察の暴走を止めるメカニズムも必要です。法務大臣が検事総長だけを指揮することが出来ても、それで検察の暴走を止めるメカニズムが完全かというと、14条がある限り不完全です。

どうせ政治家には分からないだろうけど

先に、検察の人事に介入することが検察の独立性を損なうという議論は巨悪と戦う検察を応援しているかのごとく見えるが、これほど検察官を愚弄する主張はないと申し上げました。このように一見するともっともに聞こえる議論でも当事者にすれば「馬鹿にするな!」と言いたくなる議論が多々あります。

東日本大震災時の政権を担当した菅直人元首相が退陣する際に述べた言葉があります。

「とりわけ自衛隊が国家、国民のために存在するという本義を全国民に示してくれたことは、指揮官として感無量であります。」

これを聞いて私たち制服は逆上しました。「国民のためにあるということを知らなかったのはお前だけだ!」

さらに現政権の憲法改正を必要とする理由説明は、「自衛官諸君に、君たちは違憲かもしれないが、命がけでがんばってきてくれとはとても言えない。」というものでした。創立以来65年間、一人の例外もなく「身の危険を顧みず」と宣誓して任務に就いてきた多くの隊員に対するこれほどの侮辱はないでしょう。隊員たちは政治家などに何を言われようと気にもかけていませんし、覚えてもいません。部隊に来訪する国会議員を丁寧に応対するのは、それが国民の代表だからであって、政治家個人に敬意を表しているのではないのです。

自衛隊を創設した吉田茂元首相は、防衛大学校1期生の卒業式に際し、つぎのように訓示しています。

「君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。御苦労だと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。言葉を換えれば、君達が日陰者である時の方が、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい。一生御苦労なことだと思うが、 国家のために忍び堪え頑張ってもらいたい。自衛隊の将来は君達の双肩にかかっている。しっかり頼むよ。」

同じ自由民主党の総裁とは言え、言葉の重みがグラム単位とトン単位ほどの違いを感じさせます。

定年の延長が検察の独立を侵すなどと言うのは検察官への最大の侮辱であるのですが、しかし、民主主義体制においては、検察の暴走を止めるメカニズムを作っておく必要はあります。それは定年延長ではありません。そんなことに屈する検察官はいないはずですから。しかし、検察が誰にも手を付けられない聖域であっていいはずはないのです。

つまり、検察官の定年延長問題が検察の独立性だとか、三権分立における司法権の侵害だとかという議論が巻き起こること自体に限りない違和感を覚えるのです。

これは我が国民主主義態勢の根幹にかかわる問題です。したがって、この問題を当コラムでは「民主主義の危機」として扱い、危機管理論の問題として考えています。