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専門コラム「指揮官の決断」

第189回 

民主主義の危機

カテゴリ:危機管理

どうしてこの話題なのか

いきなり何を言い出すのかと訝しがっておられる方が多いかと存じます。

当コラムは危機管理の専門コラムですので、専門分野以外の話題について言及する場合は極めて慎重な態度を取ってきています。

執筆者が海上自衛隊出身であるにも関わらず安全保障問題を取り上げることがほとんどないのはそのためです。安全保障問題は危機管理論においては極めて大きな比重を持つ分野ですので、まったく取り上げないということではなく、安全保障問題を軍事学や軍事技術の側面から語るのではなく、危機管理という切り口で見ていくということはあるかと思います。しかし私はいわゆる一般的な危機管理論の研究者ではなく、危機管理を専門とするコンサルタントですので安全保障論を専門とする方とはその切り口は大きく異なっています。

新型コロナウイルスの問題についても、これが危機管理上の大問題であることは間違いありませんが、感染症を専門に扱うコンサルティングファームではありませんので、切り口も統計学やオペレーションズ・リサーチの手法に基礎を置くものとなっています。

また、法律や政治学を専門としているものでもありませんので、一般的な政治問題等に触れることはあまりありませんし、あったとしても、あくまでも危機管理論の世界から見るとどう見えるかという言及に留めています。

さて、今回のタイトルは「民主主義の危機」と大上段に構えています。たしかに「危機」について論じるのですが、どうも危機管理のコンサルタントが取り上げるには大きすぎるテーマではあります。

しかし、何故あえてそのような大問題を専門外を承知で取り上げるかと言えば、弊社の危機管理の体系において重要な位置を占める「意思決定」の問題に大きく関わる問題を内包するからという理由があります。

検察庁法の改正の意味

さて、前置きはこれくらいにして本論に入ります。

現在開会中の通常国会に政府は検察庁法改正案を提出しました。

検察官の定年延長を主軸とする本改正案に野党は一斉に反発し、新型コロナウイルス対応のために十分な議論の時間が取れないことなどを理由として「火事場泥棒」だとして批判しています。この件については芸能人などからも大きな反響があり、一斉に反対の論陣が張られています。

この改正案は官邸の守護神とも呼ばれる黒川東京高検検事長の定年を延長し検事総長に昇格させるという目的があると見られています。

この黒川検事長は森友学園問題の財務省公文書改ざん問題において佐川元国税庁長官らの不起訴処分を主導したといわれ、現政権にとっては都合のいい人材なのかと思われます。

この黒川検事長という検察庁高官の人柄や能力を熟知しておらず、その人物が検事総長としてふさわしいかどうかは分かりませんのでコメントはいたしません。また、定年延長が必要な理由として社会情勢の変化をあげた森法務大臣がその例として東日本大震災時に検察官が最初に逃げたなどと唐突に支離滅裂な答弁を行ったことなどから見ても、この改正が十分な根拠を持つ議論を経たものではないことがうかがわれますが、しかしそれも推測の域を出ないのであえて議論の対象とはしません。

ただし、検察庁法改正を巡る社会における議論についてはこれを危機管理論の立場から考えてみたいと思います。

三権分立の侵害?

この問題に関する報道の論点は大きくは二つあるようです。

まず、この改正法が三権分立を侵すという主張です。これにはビックリです。

検察庁は国家行政組織の一部を構成し、検察権は行政権であり司法権ではありません。公訴権を独占しているという点において準司法権的な性格を否定はしませんが、しかし公訴を提起する側と裁く側が同じであれば相互の抑制が効きませんので、検察権が行政権に属することにより三権分立は本来の民主主義的性格を担保できることになります。

検察権が司法権に属していたのは日本では戦前の話です。

戦前は検察は大審院の一部局であったにすぎず、司法権が起訴するしないを判断して公訴を提起し、そして判決を行っていたのです。

それを戦後GHQが米国流の三権分立を持ち込んで、検察権が行政権に属することになったのであり、その法改正は司法権を侵しません。

勿論、検察には高い独立性が認められなければなりません。そうでなければ汚職の捜査などができなくなります。したがって、検察官は個人として独立して公訴提起ができることになっています。これは裁判官が判決に際して所属裁判所長の指揮を受けないのと同様です。

しかし、一方で検察の暴走を止めるメカニズムも必要です。そうでなければ検察の気に入らない政権に対してはあらゆる妨害ができることになります。

そのメカニズムとして検事総長に対する法務大臣の指揮権が認められています。これは影響力が大きすぎるので、法務大臣の指揮権発動は私の知るところ現憲法下では一回しかないはずです。この場合も事後に検事総長が指揮権の発動により捜査に支障をきたしたと国会で証言したため法務大臣は辞任しています。

ちなみに、最高裁判所長官に対しては誰も指揮権を発動できませんが、最高裁判所裁判官に対しては総選挙において国民審査が行われます。

独立性を保つべき検察への政治の介入?

次に、この度の改正案は検察人事への不当な介入であるという議論もあります。このような批判をする人々はこれまで検察人事がどのように行われてきたのかを理解しているのでしょうか。

これまでの歴代検事総長は自分の後任者を指名してから退官していきました。

つまり、検察官人事は検察官に独占されてきたといっても過言ではありません。

これは民主主義にとって危険です。官僚の人事に誰も口を出せないのです。

それに対して政権がものを言えるようにするというのは、枝野代表が率いる立憲民主党の前身である民主党が高く掲げた政治主導の理想だったはずです。

内閣が各省庁の人事に介入しようとするのは当然です。内閣が行政に責任を持つのであれば当然に権限も持たねばなりません。

そしてその内閣の施策の適否は選挙によって審判が下されます。それが議院内閣制をとる我が国の民主主義の基本です。

これまで行政に対して政治が民主的コントロールを十分にすることができなかった時代が続いたことの反省として「政治主導」が掲げられたはずです。野党は自分たちが政治主導を掲げておきながら、現政権の政治主導には反対のようです。

反対論者は根拠を持っているのか

一方、SNS等で改正に反対の芸能人たちは、検察庁法を読んでいるのでしょうか。何が変えられようとしているのかを理解しているのでしょうか。また、歴代検事総長の人事がどのように決まってきたのかをご存じなのでしょうか。あるいは検察権が司法権に属するという勘違いをしていないと言い切れるのでしょうか。

テレビのニュースだけで判断していないことを祈るばかりです。

そもそもマスコミも果たしてそれらを理解しているでしょうか。

当コラムではマスコミの在り方については度々疑問を呈しています。特に三権分立の考え方については、大川小学校最高裁判決を報道したNHKの解説員の解説に疑問を提示しました。(専門コラム「指揮官の決断」第159回 地方自治体の責任能力 その2 https://aegis-cms.co.jp/1705 )

この判決では最高裁は自判をせずに上告を棄却して高裁判決を支持したのに対し、NHKの解説員はなんと「高裁判決を踏襲するのではなく、最高裁として自ら危機管理の指針となるような何かを示してほしかった。」と述べたのです。

私は耳を疑いました。

もし最高裁が危機管理のガイドラインなどを示したらこの国は大変なことになります。

三権分立の我が国では、司法権は具体的な争訟を法律に照らして解決すること及び立法の合憲性または違憲性を判断することのみが期待されており、それができる専門家によって裁判所は構成されています。危機管理の専門家は一人もいません。専門家でもない者に危機管理のガイドラインなど出されて、それが行政権を拘束して、そのガイドラインに従わなかった行政作用がすべて違憲違法だなどとされたらこの国は恐ろしい独裁国になります。しかも世界史にかつてない司法独裁国家という極めて珍しい独裁国になってしまします。

最近のマスコミはその程度の論評を平気でする程度にレベルが下がっています。

何が民主主義の危機なのだろうか

この国の民主主義は基本的人権の尊重を基本とし、それを担保するために三権分立の制度を取っています。その三権分立が何を意味するのか分からない国会議員によって論戦が行われ、同じく理解できていないマスコミによって世論が形成されていきます。

つまり、民主主義がなにであるのかを政治家もマスコミも理解できない社会になってしまったということです。

これが我が国の民主主義の危機です。

なぜ危機管理論の対象になるのか

何故、これが「意思決定」における問題となるのでしょうか。

私たちは社会において生起している様々な出来事を報道を通して知ることになります。しかし、その報道がこのように論点を正しく伝えていない場合、私たちは世の中を正しく理解できなくなります。実は報道は論点を理解していないわけではありません。意図的に論点を外しているのです。世論を誘導するためです。知らないよりも始末が悪いのです。

この件については何故か芸能人のSNSにおける発言が目立っていますが、彼らはこれまで検察の人事がどう扱われてきたのかを知っているのでしょうか。また司法権と行政権の分離及び相互抑制について正しく理解しているのでしょうか。そもそも、ニュースで見聞きする以外に現行の検察庁法とその改正案を読んで反対しているのでしょうか。

以前、当コラムで、某野党党首がカンボジアPKOに牛歩戦術まで持ち出して反対したにも関わらず、そのPKO法を読んでいなかったのか部隊派遣の目的を誤解していたことに言及しました(専門コラム「指揮官の決断」第173回 大丈夫なんだろうか? https://aegis-cms.co.jp/1866 )。

また70年安保闘争を戦った多くの学生たちが安保条約の正式名称と何条まであるのかも知らずに議論しているのを見て呆気にとられたことがありますが(60年の改定において「相互協力及び」という文言が正式名称に加えられた条約が発効していることを知らない学生をたくさん見てきました。私は中学生でしたが、正式名称を知っていましたし、条文も読んでいました。なぜかというと、社会科の教師が安保条約は違憲だと教えるので、具体的にどの条文が憲法違反なのかを質問したら答えることができず、「全体として違憲だ」という訳の分らない回答だったので、この種の違憲議論を胡散臭く思っていたからです。)、この問題に関する多くの芸能人がその程度の認識で反対しているのでないことを切に期待しています。

私たちが社会情勢を判断するのに必要な情報をもたらすマスコミが信頼できず、そのうえで政治に対して正しい評価をしなければならないとすれば、私たちに残された道はデカルト的な方法的懐疑によるしかないかもしれません。