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専門コラム「指揮官の決断」

第212回 

危機管理論の始まりは

カテゴリ:危機管理

危機管理論のルーツは

前回のコラムで、コロナ禍にある現在こそ危機管理の議論を真剣に行うべきだと主張いたしました。また、リスクマネジメントを危機管理だと思い込んでいた企業は対応が取れていないと指摘しました。

すると、一体それは何だ?というご意見を頂きました。リスクマネジメント=危機管理だと考えていらっしゃる方々からです。

そういう方は別に珍しくありません。というより、ほとんどの方々そうお考えです。そうであるから、この国では危機管理が苦手なのです。苦手なのですが、東日本大震災にしても、今回のコロナ禍にしても日本人の忍耐強さ、思いやり、道徳観などにより何とか切り抜けてきているのです。しかし、いつまでもそれで耐えていけるかというとそうではないでしょう。しっかりとした危機管理がこの国でもできないと次は乗り切れないかもしれません。

そのためにはまず危機管理の概念を正しく理解する必要があります。当コラムではそのような記事をすでに何回も掲載していますが、最近になって当コラムの存在を発見された方もいらっしゃいますので、ここで新たに体系的に説明をしていきたいと考えています。

今回は危機管理論がどう発展してきたかという話です。

ベルリン危機

危機管理が「危機管理論」として学問的に研究され始めたのは第2次大戦後です。それ以前には無かったとは言いませんが、学問的な体系となっていませんでした。

第2次大戦において、実はその後40年以上に渡って続くことになる東西冷戦の種が生まれました。

ベルリンです。

ドイツを屈服させるために米国を主力とする連合軍は西からドイツに迫り、ベルリンを目指しました。

一方、ソビエトは東からポーランドを経てドイツ軍と戦いつつベルリンの攻略を目指しました。

そしてベルリンにほぼ同時に入り、結果的にドイツの降伏を勝ち取りました。

そして始まったのがベルリンの分割統治です。

ドイツ全体が分割統治されるのに、さらにベルリンそのものも分割統治が始まったのです。

東西対立の象徴的存在となったベルリンですが、当然のことながらそのような分割統治が上手く機能するはずもなく、1948年3月、ベルリン管理委員会からソ連が引上げ、6月にはソ連によるベルリン封鎖が行われました。いわばベルリンの西側が兵糧攻めになったのです。ソ連はベルリンから米・英・仏の参加国の撤退を期待していました。

しかし米・英・仏の三か国はベルリンを堅持する決意を固め、「ビッグ・リフト」作戦と言う大規模な空輸作戦を展開し、西ベルリンへ物資の輸送を行いました。

この結果として、ドイツはドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)という二つのドイツが出現することになりました。

両ドイツともベルリンを首都としましたが、現実問題としては西ベルリンは東ドイツ側にある孤島のようなものでした。

一方の東ドイツにしてみれば、西ベルリンは喉に刺さったとげのようなものだったでしょう。

この後、1961年、東西冷戦がその烈度を増してきた頃、東ベルリンから西ベルリンへの亡命者が毎週500人となるという事態になりました。やはりドイツ国民は西側の自由を求めたのです。

この問題を放置することはソ連に大きな打撃を与えます。

1961年8月13日、東ドイツ軍が突如、東西ベルリンの境界線に沿って鉄条網を敷設し、その後直ちにコンクリートで壁の構築を始めました。

ベルリン駐留の米・英・仏軍司令官はソ連軍司令官に不法行為を直ちに止めるように要求しましたが、ソ連軍司令官はこれを拒絶し、東西境界線付近で敵対行為があれば直ちに対抗すると言明するとともに、東側にいた反共思想を持つと思われる1万人を拘束しました。

この時のソ連の指導者はフルシチョフ首相であり、米国側はジョン・F・ケネディ大統領でした。

この時、西側は軍隊に動員をかけて西ベルリンを目指し、あわや東西で武力衝突ということが予想されましたが、結果的に両国首脳の判断により武力衝突は避けられたものの、東西ベルリンの分断は既成事実化されて残ってしまいました。

キューバ危機

翌1962年10月16日、アメリカ空軍の偵察機がキューバにソ連が核ミサイル基地を建設していることを発見しました。

これはアメリカにとっては喉元にナイフを突きつけられているようなもので許容できません。直ちに米国は撤去を要求しましたが、ソ連もそう簡単に応ずることはできません。

米国にとって選択肢はいくつかありました。

空爆で破壊する、海兵隊を上陸させて占領するなどのオプションがありましたが、ケネディ大統領は海軍艦艇によりキューバを封鎖する方法を取りました。前2つの方法では、実弾が飛び交って戦争になるからです。

結局、13日間にわたる外交交渉が続けられた結果、ソ連はキューバからの核ミサイルの撤退に同意したため事態は収束に向かいました。

危機管理論の誕生

しかしこの時、世界は第三次世界大戦を覚悟しました。

ベルリン危機にせよキューバ危機にせよ、東西冷戦の火種は後を絶ちません。いつどこで新たな火種がくすぶるか分からない状況でした。

そのような情勢下、東西冷戦が武力衝突となって現れ、それが第三次世界大戦に発展し、さらに核戦争が始まるのを何としても防ぐことが急務となりました。

そこで研究が盛んになったのが危機管理論でした。

つまり、危機管理論は国際関係論として議論が始まり、そもそもは東西冷戦が第三次世界大戦に飛び火し核戦争となることを如何に防ぐかがテーマでした。

そこではいわゆる核抑止の理論が議論され、「相互確証破壊」などの概念が提唱されたりしていました。

これが危機管理論であり、crisis management だったのです。

この議論は日本でも国際関係論の研究者の中では盛んに研究が行われましたが、世間一般の関心はそれほど高くありませんでした。

日本は憲法第9条を盾に戦争に関する議論はしないという風潮でした。

現実的にもアメリカの核の傘の下で高度成長を享受しており、核抑止はアメリカとソ連の問題という空気だったのです。

したがって、専門の研究者達の間では議論がなされていましたが、この危機管理論が一般の人々の話題に上ることはそれほどありませんでしたし、大学でも国際関係論上の問題として取り上げられていたにすぎませんでした。

現在でも安全保障論が大学の一般教養で語られることはほとんどありません。

先にメンバーの人選で問題が生じた学術会議は研究者は安全保障分野の研究はするべきではないという見解に立っているくらいです。

つまり平和を愛する人々は安全保障に関する議論はしないというのが建て前なのでしょう。

野党の安全保障に関する議論が幼稚なのはこれが原因です。憲法第9条で戦争を放棄したから、安全保障にかかわる勉強もしてこなかったのです。

したがって、危機管理に関する学問も専門家によって行われてきたにすぎず、一般社会におけるコモンセンスとはなってきませんでした。

尖閣諸島の問題が連日ニュースで取り上げられても、白地図を見せられたら尖閣諸島を指さすことのできる人はほとんどいないのが現実です。

ほとんどの人が指さすのは西表島や与那国島です。

それほどこの国は安全保障問題やその延長で語られた危機管理論に関しては能天気なのです。

このころ、専門家は専門書の翻訳に際して「クライシスマネジメント」という言葉を「危機管理」と訳していました。これは直訳でした。

そしてこの国でそれが議論される時、「危機管理」という言葉が用いられ、クライシスマネジメントという言葉は専門家以外は使うことがありませんでした。

「危機管理」の一般化

その「危機管理」という言葉を国際関係論の専門用語から一般社会に展開させたのは佐々淳行さんという元警察官僚でした。1979年に上梓された『危機管理のノウハウ』という本で危機管理という言葉が一挙にブームとなりました。

この本はそれまで外交政策の専門家以外にあまり使うことのなかった危機管理という言葉を一般社会に定着させ、その概念を広めることに大きな役割を果たした本でした。

この書物のお蔭で危機管理という言葉が専門用語ではなく、日常にも用いられる言葉として使われ始めました。メディアにおいても危機管理という言葉がごく自然に使われるようになったのです。

危機とは何か

それでは「危機管理」が取り扱う対象は何でしょうか。

危機を定義せよと言われると論者の数だけの定義が出てくるかもしれません。

ただ、その特徴を挙げよと言われれば次のように言えるだろうと思っています。

「人類、国家、社会、組織、家族、個人などに急迫かつ具体的な危害をもたらす」

具体的に危害が生じなければ問題がないので危機だと騒ぐ必要もありません。急迫という概念には幅がありますが、対応する時間的余裕との相対的な時間軸で考える必要があるでしょう。秒単位のこともあれば、数百年の単位のこともあるはずです。

また、その危害が生ずる原因が分かりにくいのも特徴です。

例外もあります。南海トラフに起因する地震や富士山の噴火などは理由は大体分かっていますが、やはり危機であることに間違いはありません。

いつ危害が生ずるのかが分からないというのも特徴です。

南海トラフの地震や富士山の噴火が起きる確率自体は100%です。プレートが移動を続け、マグマが溜まり続けている以上、それらが限界値を超えてズレて地震を引き起こしたり、噴火したりすることは間違いありませんが、それがいつになるのかが問題なのです。向こう30年以内に○○%という程度の予測しかできないものが多いようです。

小惑星の衝突などと言う危機は、その小惑星が発見されれば、かなり正確に日時や場所を計算することができますが、危機であることに変わりはありません。

どのような危害がもたらされるのかが不明であることも特徴でしょう。

南海トラフの地震や富士山の噴火が、歴史的にどのような規模であったかは概ね分かっていますが、それが現代の社会で起きるとどれだけの被害をもたらすのか想像もできません。

いろいろなシミュレーションが行われていますが、果たしてどこまで的確に予測できているのか分かりません。また、フルスペックの猛威を振るうのか、あるいは小さい規模で数回に分けて生ずるのかも分かりません。

対応する時間が限られているというのも特徴です。小惑星の衝突は発見する時期にもよりますが、数日から数か月の時間があるかもしれませんが、対応はかなり困難でしょう。

地球環境の危機にも数十年や数百年の時間が必要かもしれません。それらの時間軸は危機の様相によって相対的です。

このように危機は様々な特徴を持っています。

そもそも危機管理という言葉自体が自己撞着に陥っています。

管理できないから危機なのですが、それを管理してしまおうというのですから、そもそもが矛盾なのですが、だからと言って座して迎え入れなければならないというものではありません。

現在のところ危機管理の対象として研究が進められているのは次のような分野でしょう。

安全保障分野、自然災害、経済・金融関連、地球環境などがまず思い浮かびます。

しかし、先にあげたような特徴を持つ危機はいたるところに存在します。つまり私たちはあらゆる場面において危機に備えなければなりません。なにしろ、いつどういう危害がもたらされるか分からないのですから。

このように、危機管理は外国政策におけるクライシスマネジメントをルーツとして発展してきました。

次回はリスクマネジメントについて触れてまいります。