専門コラム「指揮官の決断」
第278回危機管理をしない組織
危機を管理するためには
当コラムでは経営者は様々な分野の業務についてそれぞれの専門的知識経験を持った経営幹部に権限を委譲することは必要なことだと申し上げてきています。
例えば、技術出身の社長は営業や経理についてはそれを専門とする経営幹部にその指導監督を任せることも仕方ないかもしれません。
逆に営業出身の社長は技術的な問題については技術部門出身の役員の助言が必要でしょう。
しかし、危機管理に関しては経営者はその権限を誰に委譲してもなりません。危機管理の権限と責任は経営者が一身に負わねばなりません。極言すれば、危機管理以外のあらゆる業務に関する執行権限はそれぞれの専門に任せても構いません。責任だけは取る覚悟さえあればそれらの権限は委譲した方が業務の円滑性を保つことができるかもしれません。
しかし、危機管理の権限と責任だけは別です。
この危機管理に関する権限を的確に行使し、責任を全うするために必要なのは、経営者の覚悟と危機管理に関する経験です。さらに、危機管理上の事態が生じた場合に、その分野における知識経験も必要です。
原発事故などが発生した場合、原子物理学のみならず、医学、気象学など様々な分野の知見を総合しなければ問題の解決や被害の局限ができません。しかしトップはそれらの専門分野の知見を総合して判断し決断する責任があります。
逆に言うと、トップは自分が的確に判断できるようにするために必要なスタッフを集め、あるいは教育しておく必要があります。
危機管理ができる組織か?
この度の2年にわたるコロナ禍を概観してみると、この危機管理のための組織について不思議なことが観察されます。
政府における感染症対策については当初「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」が設置され、座長には脇田 隆字 国立感染症研究所所長が就任しましたが、副座長の尾身茂独立行政法人地域医療機能推進機構理事長が終始正面に出ていました。
その他の構成員は医師、感染症研究者、弁護士など10名でした。
令和2年7月にその会議が廃止され新型コロナウイルス感染症対策分科会が設けられました。この分科会の会長には尾身茂氏が就任し、35名で構成されています。
この構成を見ただけで、この分科会の性格を見て取ることができます。
筆者はかつて海上自衛隊から防衛相内部部局に出向して勤務していたことがあります。内局では防衛計画の大綱の見直しが行われている時でしたが、有識者を集めた見直しのための会議が何回も開催されており、そのための資料作りに追われた覚えがあります。
この大綱計画見直しの有識者会議はアサヒビール社長であった樋口広太郎氏が座長で、デザイナーの山本寛斎氏らがメンバーとして参加されていましたが、いわゆる議論が行われていたかというと全く行われてはいませんでした。
防衛省でその会議が行われる場合には毎回のテーマごとに防衛省からの説明があり、メンバーから質問が出て、それに内局が答えるということの繰り返しで、その他の回では、内局がそれら有識者に見てもらいたい各自衛隊の現場へのツアーが計画され、航空機や戦車への体験搭乗、艦艇での体験航海などが行われていました。
結局集められた有識者は内局が起案した文書について質問したりする程度で、この防衛計画の大綱の議論は結論を出してしまいました。
政府が有識者を集めて何かをするというのはそういうことです。
メンバーの方々の名誉のために申し上げておきますが、樋口座長はその責任を大変重く受け止めておられたようですし、山本寛斎氏はまったく経験のない分野について深く学ぶために真摯な質問を繰り返されたと聞いています。
しかし結局は役人たちが自分たちがやりたいことをいかにも各界からの意見を聴取して作ったように見せかけているだけです。そのために、いろいろな方にお出で頂くのですが、各省庁にとって御しやすい方々が選ばれています。まじめに説明を聞いて頂ける方が集められ、強気の論客などが選ばれることはまずありません。
この度の分科会も、その構成員の数を見て、厚労省の本音が理解できました。
35人のメンバーがいるのです。この人々が真剣に議論なんか始めたら何時間あっても結論を出すことはできません。
通常、この分科会が開催されるときには2時間から3時間くらいが予定されているようです。
冒頭に厚労省の担当者から状況についての質問があり、政権からの諮問が提示され、各委員の意見を聞くようですが、一人何分発言できるかと考えると、多分5分程度かと思われます。
何らかの意見を一度述べるだけで、そのあとの活発な議論の展開など望むべくもありません。これが5人程度の諮問委員会を開くとなると話は変わってくるのでしょうが、そういう人数ではないようです。
その証拠に、各回の議事録を厚労省のHPで読むことができますが、参加者全員で議論しているという議事録にはなっていません。尾身会長が質問して、事務方が回答しているという場面がやたらと見受けられます。
つまり、厚労省にとってはこのコロナ禍は通常の役所における有識者を集めた検討会を開く程度の業務にすぎないということです。一人一人の専門家から真剣に意見を聴取しようとしたら35人も選任するはずはありません。せいぜい5人か7人です。
なぜ民間人に任せるのだろう?
まん延防止等重点措置適用や緊急事態宣言発令に際して、政府は分科会に諮問し、その了承を得て実施に移していますが、その記者会見に厚労省大臣の補佐として出てくるのが尾身会長です。
ここも筆者が理解に苦しむポイントの一つです。
厚労省には医務技監というポストがあります。医系技官のトップであり、専門的知見をもってこの国の厚生行政を担当するポストです。医療行政に関しては事務次官並みの権限を有していると言われています。
その医務技監がコロナ対策において何をやっているのかがまったく見えないのです。
民間人である尾身分科会長が説明に立つというのは、筆者のような公務員出身者の目には異様に映ります。
医療の専門家が集まっているはずの厚労省に医務技監というポストがありながら、都度分科会に諮らないと政策の策定ができず、その説明に民間人が現れるというのが異様なのです。
尖閣諸島をめぐって武力紛争が生じた場合、自衛隊が有識者に作戦を立ててもらい、その対処方針を民間人が記者会見で説明を始めたら異様ですよね。
これまでの2年間の政府の行動から、政府がこのコロナ禍を有事だと見做さず、安全保障上の問題ではないと考えているとしか思えないのですが、有識者に方針を承認してもらい、説明も民間人にやってもらうという態度が納得できるように思えます。
本気じゃないよね
この政府がコロナ禍を真剣に有事ととらえていないことを伺わせる事象には事欠きません。
岸田首相は総裁選に当たり「危機管理の要諦は、最悪の事態を想定して備えること。」と述べていました。このこと自体が彼が危機管理の本質を理解していないということはすでに指摘していますが、百歩譲って、それが彼にとっての危機管理だとすれば、首相はその危機管理すら手を付けていないということです。
最近政権の支持率が上昇していますが、それはコロナ等への対応の早さが評価されているという分析がなされています。
しかし筆者が見るところ、この政権は何もやっていません。河野大臣から交代した接種担当大臣は何もしていないので関係官僚がやきもきしています。
また、首相が危機管理の要諦とする最悪の事態を想定するということすらなされていません。
オリンピック後に第5波が急速に引いてしまったため緊張感を失ったものと思われますが、第6波への準備をしていません。検査キットがなくて検査をしようにもできないという呆れ果てる状況が生起しています。
今頃になって慌てて政府が買い取り保証をするから増産してくれとメーカーに頼む始末です。
自衛隊が有事が近いと感じたら、まず弾と燃料の準備を始めます。そのように計画されています。
さらに戦場で一戦交えて目的を達したら、今度は逆襲に備えます。そのように躾けられています。
現政権は第5波の後にウイルスの逆襲に備えることをせず、医療関係者に弾も供給しませんでした。
年末の12月18日にコロナ対策をどうするのか記者に訊かれた首相は「オミクロン株の実態がより明らかになるまで、少なくとも年末年始の状況はしっかり見極めた上で、その先については考えるべきではないか」と答えています。つまり、彼は最悪の状態を想定することすら先送りにしたのです。その結果が現在の検査キット不足です。
天に唾する人々
厚労省や医師会も実はコロナ禍が大変な災いだとは考えていないのでしょう。飲食店に9時までの時短営業を要請している時に厚労省職員23人が深夜零時近くまで送別会を開き、うち12人が陽性反応となってクラスターと認定せざるを得なくなったことすらありますし、GoToトラベル事業の中断を訴えた中川日本医師会会長が発起人として与党議員の政治資金パーティを開き、100人の医師会会員が参加していたこともありました。
政府がこの事態を有事だと考えていないから、相変わらず財政規律などと寝言を言う与党幹部が後を絶ちません。
有事になっても財政規律を気にする政治家がいるとすれば、差別用語と言われてもあえて発言させていただきますが、そいつはバカです。
財政が黒字であれば国が滅んでも構わないと言っているのと同じですからね。
挙国一致の危機管理態勢ではない
つまり、この国の政治はまだ危機管理を行う組織となっていません。
平時の態勢でこの事態に対応しており、しかし何らかのやっている感を出さねばならず、そのために医療態勢を強化すると医師会の利益を損ねるので、代わりにまん延防止等重点措置で飲食業を犠牲にしているにすぎません。
飲食店は医師会の利益を守るために犠牲となっているだけであり、措置も宣言も感染者数の増減に関係がないことはグラフを見る頭があればすぐに分かりますし、措置の適用を要請した知事自身が、その効果があるかないか分からないと発言している状態です。
つまり、挙国一致の総力戦で必死に事態に立ち向かっているのではないということです。
政治や医師会が必死にならないのに、特定業界を犠牲にし、国民に忍耐を強いるという異常事態なのです。
(表題写真:NHKドラマ『坂の上の雲』から)