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専門コラム「指揮官の決断」

第460回 

コロナ禍に学ぶ危機管理の発想法 その1

カテゴリ:危機管理

はじめに

昨年、当専門コラムを原点回帰させ、危機管理とは何かを追求すると宣言したにもかかわらず、その後に生じた様々な状況により、その意思を貫徹できず、寄り道をしていました。

この間、中国との関係悪化、米国によるベネズエラ攻撃、総選挙における自民党の圧勝、立憲民主党の歴史的大敗、イスラエルと米国によるイラン攻撃など、危機管理の観点からも無視できない様々な事件が生起しました。

当コラムが言及すべき案件が溢れかえっているのですが、どうもその気になりません。

政治に関わるのは嫌ですし、国際紛争に関しては、テレビに出てくるコメンテーターや評論家のレベルが低すぎて、議論する気にもならないし、新聞も不勉強が目立ちます。日本のジャーナリズムは墜ちるところまで墜ちてしまったようです。

そこで、原点回帰で、そもそも危機管理とは何かという問題を掘り起こしていきたいと思います。

抽象論では分かりにくく、また退屈ですので、具体例を挙げたいのですが、皆さまがまだ記憶に新しいコロナ禍で、私たちの社会がどう対応したのかという論点から入っていきます。

当コラムのコロナ禍への取り組み

すでにこの論点では過去3回、毎回視点を変えて議論してきました。

最初にはPCR検査に関し、テレビ朝日社員の玉川というレベルの低いコメンテーターと、彼らがしきりに強調した病床ひっ迫という報道が実際には嘘で、コロナ禍が一番ひどかった時でさえ、専用病棟は6割しか使われていなかったことに言及し、次にはテレビに出ている感染症専門家という連中が、実は致死率さえまともに計算できない連中であることを指摘し、メディアは隠しましたが、実は2020年の日本の死者数は前年よりも1万人少なかったことを指摘しました。前代未聞の流行り病の中で、死者数が減っていたのです。そして、三回目には英語を読めず、算数も分からない共同通信の記者の誤報を新聞、テレビがコピー&ペーストした結果、それを読んだ当時の日本医師会の中川会長がGoToトラベル事業を批判して、同事業が中止に追い込まれたことを指摘しました。許されないのは、その指摘をした中川会長自身が、某政治家の政治資金パーティに参加しており、「我々医師は予防接種を受けており、会場のホテルも万全の態勢を取っている」と弁明したことです。

社会は医師に優先的に予防接種をさせたのは、政治資金パーティに参加させるためではなく、また、その会場のホテルだけでなく、GoToトラベル事業に参加したホテル・旅館は、自身の生き残りをかけて準備していたはずなのです。

このように、コロナ禍においては、様々に反省しなければならない点がありますが、その総括がなされている気配がありません。

各省庁や自治体、企業などはそれぞれに教訓をまとめていると信じたいのですが、喉元を過ぎると熱さを忘れてしまい、過去のことは水に流してしまう私たちの国民性に危惧を抱いています。

このように当コラムではコロナ禍に関して様々の論点で言及してきました。

当コラムは専門性と、その方法論に拘っていますが、あえて専門外のコロナ禍に挑みました。あまりにも世の中の議論が出鱈目だったからです。

素人の筆者から見ても出鱈目で、とても専門家の議論とは思えない代物だったので、これが世の中を跋扈すると大変なことになるという思いから専門外であることは承知で言及しました。

専門性が必要か

当コラムでは、東京大学の研究者チームがGoToトラベル事業に関して調査した論文について何度か取り上げています。

この問題は、その記事を配信した通信社の記者が算数も分からず、英語も理解できないレベルであり、それを各紙がファクトチェックもせずにコピー&ペーストをしたことで深刻化しました。それを読んだ当時の日本医師会長が真に受けてGoToトラベル事業を中止すべきと発言し、実際に中止されてしまったという事態にも発展しました。

この件を取り上げるに際して、筆者は統計学の入門的講義を大学で聴いたことがあること、大学院で英語の論文をかなり読まされたことなどから、この論文を読んでみたのですが、それは、そのようなトレーニングを受けていない方々にとっては、若干時間がかかり、面倒な作業だったかもしれません。例えば、論文が英語以外の外国語で書かれていたり、統計学が入門レベルを超える内容であった場合を考えると、筆者も手が出せない問題であったはずと考えます。

しかし、それら専門的な知識、経験がなくとも、疑問を持って考えればおかしな議論がまかり通っていることが分かるものが多々あります。

直観力

実は危機管理というものを考える時、この直感が大切です。

専門的知識が必要なら危機管理はできません。

危機というものは、いつどこで現れるか分からないからです。

危機の形は様々で、戦争だったり、自然災害だったり、政治だったり、感染症だったりします。通貨危機と言うのもありますし、人間関係にも危機は現れます。

何が起きるのか分からないのが「危機」です。想定外の事態に対応するのが危機管理です。特定の専門家では対応できないのです。

つまり、危機管理に必要なのは特定の専門的知識ではありません。

それでは、何が必要なのか、という議論になります。

それは、まず危機の芽に気付く能力です。

筆者は、老舗旅館や料亭の女将は危機管理の専門家たる資格を持つ、と言うことがあります。

彼女たちは、ほんのちょっとした汚れ、額の曲がり、花の鮮度などを見逃しません。あるべきものをあるべき様に維持することに、凄まじい情熱を注ぎます。

ある時、ある老舗旅館の女将に案内されて、入り口から歩いたことがありました。

途中で、彼女がちょっと立ち止まり、玄関に着いた時に番頭さんを呼んで、何やら耳打ちをしていました。筆者が番頭さんに、何だったのですか、と尋ねると、彼は「ご一緒しましょう」と言って、筆者が歩いてきた小道に出ていきました。そして、「女将が立ち止まったのはどの辺ですか?」と訊いてきました。

筆者が大まかな位置を示すと、彼は素手でその地面を撫でまわし、しばらくすると「見つけました」と言って手招きしてきました。

筆者はそこへ行って番頭さんの示す位置に手を当てたのですが、何か分かりません。

番頭さんが持っていたスコップで、そこを掘ると、筍の芽が出てきました。

翌朝になると、それは足を引っかけるくらいに地表に出てきていたかもしれません。チェックアウトするお客様が躓くかもしれないのです。

その筍の芽を、女将は和服の足袋と草履の足で見極めたのです。

危機管理には、そのような感性が必要です。

多くの方は、「そんなこと無理だ」と思われているかと拝察します。

たしかに、そのような感性は一晩ではできません。

チコちゃんに叱られるくらい「ボケーッ」と生きている人には無理でしょう。

しかし、老舗旅館の女将にならなくても、ある程度、その感性を育むことはできます。

一つだけです。

考えることです。

以後、何回かにわたり、この危機管理の感性を磨くための発想法について取り上げてまいります。

その過程において、専門的知識なしにコロナ禍に挑んだ当コラムの発想法をご理解いただけるかと存じます。