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専門コラム「指揮官の決断」 

No.088 西暦に統一だぁ?

怒ったぞ

 私はかなり怒っています。
 まあ最近の政局や行政を見ていると腹が立つのも仕方ないのかもしれません。
 さらに、このコラムで政治や行政を批判するのは簡単だけど、それはその政権を選び、行政を監督してこなかった私たちの責任でもあるということを何度か指摘してきた手前(専門コラム「指揮官の決断」No.082 誰の責任? https://aegis-cms.co.jp/1137 をご覧ください。)、無責任に政治批判をしたいとは思わないのですが、今回は怒っています。

 政府は、各省庁が運用する行政システムの日付データに元号ではなく西暦に一本化する方針を決め、近く、運用指針に盛り込むようです。
 来年行われる改元に伴うシステム改修費の大幅削減になるだけでなく、データ形式を統一してシステムを連携しやすくするのだそうです。

 結構なことで、何をお前は怒っているのかという声が聞こえそうです。
 
 この件について報道した読売新聞は、5月21日(月)朝刊の第1面で「政府の文書には日付表記の決まりが無く、慣例で元号表記が原則となっている。」と記載しています。
 しかし、これは読売新聞の完全な誤報です。

何故、西暦表示一本化なのか

 元々、元号に関する規定は大日本帝国憲法においても規定はなく、皇室典範に規定されていたのが根拠となっています。つまり、皇室に関する規定でした。
 日本国憲法になると新しい皇室典範からもその規定が削除され、元号はまったくその法的根拠を失ってしまいました。

 ところが1970年代、昭和天皇の高齢化もあり、日本の伝統や文化を見失うことへの懸念から、元号法制化の機運が高まり、1975年に野党や学術会議の反対を押し切って元号が法制化されました。
 ただ、この法制化は元号の決め方を定めただけなので、これをどうしても使わなければならないというものでもありませんでした。この点に関しては読売新聞の記事は誤報ではありません。

 しかし、1994年、公文書の年表記に関する規則(規則第3号)において、公文書においては元号を用い、西暦による表記を適当と認める場合は、西暦を併記するものとする、と規定されたため、政府の文書は外国語で記述されるものを除きすべて元号が表記されるようになりました。
 読売新聞はその事実を知らないのです。

 この規則が制定された時の大混乱は今も覚えています。
 当時私は海上自衛隊におり、幸いにして現業についておらず、幹部学校指揮幕僚課程の学生として、指揮官あるいは上級司令部の幕僚となるための教育を受けていましたので渦中に巻き込まれることはありませんでしたが、文書の日付をすべて元号にするためのプログラムの改修などで海幕などで実務についていた多くの先輩の海幕スタッフは面倒な作業を強いられていました。

 当時、海上自衛隊は米海軍との共同作戦をあらゆる作戦の基本に据えていたため、当然文書の日付は西暦を使用していました。私たちが年月日を理解するのも西暦で理解していました。
 もちろん、予算に関する事項などについては元号を使っており、要求する予算を1995年度予算などということはなく平成7年度予算と呼称し、1995年度予算と呼ぶのは米国の予算のことでした。
 
 元々、海上自衛官は様々な単位尺度を使い分けることに慣れています。
 海の上にいる時は速力をノットで測るために、距離はマイルまたはヤードで測定し、高度はフィートで理解しています。射撃もヤードを基本に計算します。
 つまり、その場で最も分かりやすい単位を使い分けていたのですが、年代に関しては元号を使うよう強制されてしまったのです。
 日本の歴史や文化、伝統を公務員が自ら大切に扱う姿勢を示せと言う内閣の方針には従わざるを得ず、恐ろしく不便で、元号が変わるたびにソフトを改修しなければならない不経済さに目をつぶって耐えてきたのです。

 それが今になって改元に伴うシステム改修費の大幅削減し、データ形式を統一してシステムを連携しやすくすると言われても納得できるものではありません。
 そんなことはあの時に分かっていただろうということです。

 私は西暦への一本化に反対するものではありません。
 というよりも、どちらの表記を使うべきかという議論をするならば、当時の政権の解釈が逆だったと考えています。
 つまり、公文書の年表記に際しては西暦を原則とし、元号表記が適当と考えられるものについては元号を併記することを妨げないとすべきだったと個人的には思っています。
 たしかに、キリストの生誕を根拠とする表示を何故公文書で使わなければならないのかという議論はありますが、それでは皇紀を使用するか、という発想はなかったように思います。
 皇紀なら元号が変わるごとの混乱は生じません。

問題は何だろうか

 
 私が怒っているのは、様々な圧力団体からの圧力に屈したか迎合したかは承知していませんが、元号を法制化し、さらには規則でその使用を強制しておきながら、今になってその際に議論しつくされたはずの論点を持ち出して西暦の使用に一本化するという政権の態度です。
 行政の一貫性を自ら破ることについて、何らかの釈明をすべきです。

 方針を改めるのであれば、何故改めるのかについてしっかりと説明をして頂かなければ、次にいつ同様な方針の改定が行われるのか分からず、安心することができません。いつ梯子を外されるか分からないからです。
 文科省のゆとり教育もそうでしたが、どうも思い付きやその場の空気、あるいは圧力団体の思惑などが見え隠れするのが気に入りません。

 危機管理を扱う当コラムにおいて、私は危機管理において重要なのは「的確な意思決定」、「優れたリーダーシップ」そして「ステークホルダーの信頼を勝ち取るプロトコール」であると度々述べており、当コラムはその三つの論点のいずれかに関わるテーマを選んで綴っています。(詳しくは 専門コラム「指揮官の決断」No.003 プロトコールが危機管理に必要な理由 https://aegis-cms.co.jp/127 をご覧ください。)

 今回の西暦への一本化は行政の意思決定における問題点を曝け出しています。

 つまり、長期的な戦略が見えないのです。
 
 元号に統一したのは、昭和天皇の高齢化に伴う新元号制定の根拠作りであり、また、日本の伝統等が失われることに対する怖れからだったのですが、そこには元号がいずれまた変わる時が来る、その時にどのような混乱が生ずるかという視点が欠けています。
 百歩譲って、発簡年月日は元号とするにしても、文書管理の一連番号に西暦を入れておくというような配慮をすれば問題はなかったはずです。

 今回の方針変更により、財務省はどれだけの予算を各省庁に付けるのか承知していませんが、プログラムの改修費は相当額に上るものと思われます。
 ITバブルが弾けたあとの業界にとっては、少しは有難いのかもしれません。

マスコミはその程度もチェックできないのか?

 一方、それをチェックできない新聞にも呆れてしまいます。
 ちょっと調べれば分かるのに「政府の文書には日付表記の決まりが無く、慣例で元号表記が原則となっている。」などと一面記事に書いてしまう新聞のレベルの低さにはびっくりです。
 
 新聞も、政府文書にどういう規則があるのかくらい、ネットで調べれば5分もかからない作業を怠るというのでは、その見識を疑われてしまいます。
 言論の自由だのと偉そうなことを言う前に、まともな報道ができるように勉強してお出でと言ってやらなければなりません。

 一方、Wikiで調べる評論家やコメンテーターがいるのですが、これにもびっくりです。
 かつてWikiが誤って記述した論点について、一斉に各評論家が同じように誤ってコメントしていたことがあって笑ってしまったのですが、まあ、マスコミのレベルはその程度のものなのでしょう。

 いずれにせよ、政府とそれをチェックすべきマスコミの基本的な態度に怒っています。

 マスコミが堕落しているのは私たちの責任ではありませんし、マスコミのレベルが低いと自然に淘汰されていきます。
 かつて海中のサンゴに自ら傷を付け、それを自然破壊の現状だと大きく写真入りで報道した大新聞は、慰安婦問題や原発問題などに関して誤報であることを知りつつ報道を続けたことが明るみに出たため、過去5年で発行部数を半減させてしまいました。自業自得なのです。

国政に関する責任は私たち国民が負ってしまう

 しかし、政権や行政における問題は、私たち有権者の責任であり、私たちが損害を被るのです。
 そのような政権を私たちが選び、行政を役人任せにして監督責任を放棄してきた結果です。
 このコラムでは何度も繰り返していますが、立法・司法・行政の三権の監督責任は私たちにあり、私たち国民が彼らを監督する最後の砦です。
 政権を選ぶのは私たちの責任ですし、行政を監視し、もしそれが機能不全に陥っているのであればそれを正すのも私たちの責任です。
 立法や行政の過ちを正すべき司法が誤った判断を繰り返すのであれば、その判断に対して私たちは意見を述べなければなりません。最高裁判所裁判官を審査する権限が私たちには与えられているのです。
 
 要するに、国権の最高機関に対する監督権限を私たちは駆使しなければならず、これは憲法には規定されていませんが、私たち国民の義務なのです。私たちの責任は非常に重いことを覚悟しなければなりません。

 私たちは義務教育の頃から、三権分立がいかに大切かを繰り返し繰り返し教育されてきました。
 しかし、このことの意味を理解している方は恐ろしいほど少数です。
 大方は試験対策として「三権分立」という言葉を知っており、ちょっと勉強した方なら「さんけんぶんりつ」という言い方と「さんけんぶんりゅう」という言い方があることを知っているという程度です。
 その中身の重要性を理解している方は少数派です。

国政に関する私たちの権利を勘違いしてはいけない

 例えば、今このコラムをお読みになっている方で、最高裁判所長官の名前を尋ねられて答えられない方は、失礼ですがご自分の政治を批判する資格についてお考え直し下さい。
 批判するなら、まず、その程度のことは理解してから批判すべきだと思いますが、いかがでしょうか。新入社員ならともかく中堅社員が社長や会長の名前も知らなかったら、皆様呆れ果てるでしょう?三権分立の重要性については嫌というほど勉強してきたはずですが、その意味を体得されているかどうかをもう一度お考え下さい。
 普段、何ら関心を持っていない国権の最高機関について、知りもしないのに批判だけするのは無責任なのではありませんか?

 参政権は我が国憲法の重要な柱です。しかし、それは国民に無責任に文句を言う権利を与えているのではなく、恐ろしく重い責任を私たちに負わせているのだということを私たちはしっかりと理解しなければなりません。