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専門コラム「指揮官の決断」 

No.111 『失敗の本質』 再考 その3 人事制度の問題

日米の人事制度の比較

 これまで2回にわたり名著『失敗の本質』を取り上げました。
 第1回は意思決定の目的は何かという論点を取り上げ(No.103 『失敗の本質』再考:自らの使命は何なのかを問い続けよ https://aegis-cms.co.jp/1275 )、第2回では意思決定の行われる環境とはどういうものかという問題を考えました(No.107 『失敗の本質』 再考 その2 意思決定の環境 https://aegis-cms.co.jp/1308 )。
 今回は人事制度について考えます。

 『失敗の本質』において度々取り上げられるのが日本軍の年功序列による硬直した人事制度です。

 たしかに陸軍は陸軍大学校絶対という風潮がありました。陸軍大学校の卒業成績がその後の昇任を決めてしまうのです。この陸軍大学校には中尉または大尉で入校し、高級参謀になるための教育を受け、その後、司令部参謀を経て大きな部隊の指揮官になっていきます。
 
 一方、海軍は若干状況が異なり、海軍大学校の卒業成績はそれほど重視されておらず、序列は海軍兵学校の卒業成績(ハンモックナンバーと言われます。)で概ね決められていました。海軍大学校の入校も陸軍より遅く、大尉又は少佐で入校していました。
 
 いずれにせよ陸軍大学校や海軍兵学校の卒業成績で基本的な序列が決められ、また卒業年次で各階級の昇任年次も大体決まり、その秩序の中で指揮系統が作られていたことは間違いありません。
 
 米軍の方は卒業年次などは考慮されず、毎年行われる人事考課、勤務評定の成績が大きく影響しています。
 さらに中佐から大佐への昇任、あるいは大佐から少将への昇任などは、まずセレクション・ボードと呼ばれる選考委員会で評価され、その結果昇任が適当であるとの評価を得た者が海軍省で長官、作戦部長、人事局長などの評価を経て決定されるという制度となっています。

 『失敗の本質』では、学校の卒業年次で機械的に決められる硬直化した日本の人事制度に比して米国のそれは「選定プロセスに感情が入り込む余地を排除」「官僚制組織を土台にしながらもそれを静態的な構造にとじこめないように、ダイナミズムを導入しようとする米軍の組織特性が反映されている。」という評価を与えています。

 また米海軍のダイナミックな人事システムとして、一般に少将までしか昇任させず、作戦展開の必要に応じて中将、大将に任命し、その任務を終了するとまたもとに戻すことによってきわめて柔軟な人事配置が可能であったことを評価しています。
 さらに大胆な能力主義による抜擢人事が可能だった米軍は、適材を適所に配置することができたが、硬直した年功序列人事だった日本はそれができなかったとしています。

 確かに、ミッドウェイ作戦を見る限りにおいては、米海軍は素晴らしい指揮官を配していました。
 一方の日本海軍はというと、特に無能な指揮官が集まっていたわけではありません。機動部隊指揮官は水雷が専門であり航空戦を専門としていたわけではありませんが、航空戦を担当する参謀には優秀な士官が集められていました。各級指揮官は米軍に勝るとも劣らない優秀な指揮官揃いでした。

本当に米軍の人事システムはダイナミックだったのだろうか

 ここで問題としなければならないのは『失敗の本質』が絶賛するところの「米軍のダイナミックな人事システム」です。

 昇任選考におけるプロセスに感情が入り込む余地を排除した官僚制組織を土台にしながらもそれを静態的な構造にとじこめないように、ダイナミズムを導入しようとするシステムとして絶賛されているのですが、本当でしょうか。

 米海軍を舞台にした小説などにはよく出てくる話なのですが、昇任選考過程において、候補者に上院議員の知り合いがいるということは大変大きな要素となっています。

 また、米軍の社会で暮らしてみればよく分かりますが、米軍士官の夫人たちの夫の上官の夫人への気遣いは大変なものです。
 私は連絡官としてペンシルバニア州の海軍基地で2年間勤務したことがありますが、それ以前に横須賀の米海軍基地で半年勤務していました。
 都合2回の米軍勤務を経験していますが、各部隊の指揮官夫人を頂点とする御夫人方のお付き合いは結構大変だなと思って見ていました。
 士官たちの社交組織であるオフィサーズ・クラブのパーティなどには夫人が同伴するのが普通ですが、それだけではなくオフィサーズ・ワイブス・クラブが組織されており、指揮官夫人をリーダーとするその組織を中心に、官舎地区に住む子供たちを楽しませるためのクリスマスパーティやハロウィンの行事の企画などが行われ、また、地元への社会貢献活動なども行われるのですが、各夫人たちは必死になってその活動に取り組みます。
 彼女たちのワイブスクラブでの評価が夫の勤務評定に影響を与えるからです。

 能力による大胆な抜擢を可能とするシステムも常に正常に機能するとは限りません。
 現場の最高指揮官が隷下部隊の指揮官を抜擢により任命した結果、誰がどう考えても不適切なゴマ擦り人事となり、大激戦の最中にその指揮官を交代させなければならなくなった例などは珍しくありません。
 米軍の戦史において地元選出の上院議員の圧力により師団長となった陸軍中将が、現場を指揮していた軍団長により臆病者のレッテルを張られて最前線で解任された例もあります。
 米軍の人事システムに感情が入る余地がないのではなく、このシステムこそ政治的な思惑に脆弱なシステムだと言わざるを得ないのです。

 能力による大胆な抜擢を可能とするシステムは一見とても素晴らしく見えます。たしかにミッドウェイ沖海戦の米海軍においては立派に機能しました。
 しかし、一歩間違うと大変危険なシステムです。
 人事当局が周到に考察し、経歴管理をしてきた思惑と無関係に、現場の最高指揮官の好き嫌いで抜擢が行われることがあるからです。

 それだけではありません。

 作戦に臨む前の指揮官が何をしているのかご存知でしょうか。

 彼らは部隊の錬成に必死になっています。
 彼らは自分が率いる部隊の強点や弱点を熟知して作戦に臨んでくるのです。末端にいる最前線の指揮官の性格や考え方なども把握しているのが普通の部隊指揮官です。
 
 また部隊側も指揮官の方針などをしっかりと叩き込まれているので、混乱した状況で命令がしっかりと伝達されなくなっても、自分たちが何をすべきなのかを理解できるのです。
 日露戦争の日本海海戦で、日露双方が入り乱れるすさまじい混戦の中で、日本海軍が常に東郷司令長官の意思の元に一糸乱れぬ艦隊運動を展開できたのはこのためです。
 
 それを作戦直前に適材適所と言っていきなり指揮官を交代させると、そのような以心伝心の部隊指揮を執ることができません。
 
 米国は元来移民が建国した国であり、様々なバックグランドの人々が混在しています。当初から多様性が前提となっている国です。つまり以心伝心などというものを最初から期待していません。
 一方の日本は単一民族で形作られ、均一性が前提の国なのです。そのために以心伝心というコミュニケーションが可能な国です。
 リーダーシップのあり方は、その国民性や文化などの背景を無視して語ることはできません。
 組織論の専門家たちがそのことに言及していないというのは恐るべきことです。
 

brown nose と社会学的考察

 
 英語には” brown nose “ という言葉があります。
 犬が他の犬の後ろにくっついて離れず、前の犬が立ち止まったら前のめりになりお尻の穴に鼻を突っ込んで茶色くなってしまったということを指しており、そのように上司にゴマを擦ってくっついて歩いている者のことを呼ぶ時に使われます。
 米軍を舞台にした小説にはよくこの単語は出てきますし、私が最初にこの単語を聞いたのは、環太平洋合同軍事訓練(通称リムパック)に参加した時に乗っていたアメリカの空母の同じ階級の連中と雑談をしていた時でした。彼らにはよくある話なのでしょう。

 それらのことに『失敗の本質』は触れていません。つまりこの本の著者たちは制度のうわべしか見ておらず、その実態を知らないのか、あるいは自説の邪魔になるので無視しているのです。
 この本の著者たちががセレクション・ボードの実態を知らなかったり、オフィサーズ・ワイブス・クラブの内幕やbrown nose の話を知らなかったりしてもそれを責めることはできません。私だって米軍の中で勤務したことが無ければ知り得なかったことであり、学者たちが書物から得た知識でものを言うのは仕方のないことです。

 しかし、人事制度や評価制度はその国の社会の歴史的背景や文化と切り離して論ずることはできません。せめてその観点からの分析はあってしかるべきです。
 儒教の影響を色濃く受けている日本の社会では、年長者を敬えと訓えられ、年功序列が大切に維持されています。学校でも1年違うと先輩と後輩の関係が終生続きます。
 米国のように、年齢差に関係なくお互いをファーストネームで呼び合う社会ではないのです。
 そのような社会で、能力によって大胆な抜擢を行う人事制度を採用できるのかどうか、その検討がまずなされなければなりません。
 

 戦後70年以上たった現在でも、能力主義の人事や評価が企業に定着しているとは言えません。
 年上の部下を持ったり、かつての上司が部下になったりすることが大きなストレスとなり、メンタルダウンする中間管理職の存在は社会問題化しています。
 現在ですらそれが問題なのに、そのシステムを旧軍で採用することができたのかどうか、その検討は一切なされていません。
 その国の文化、社会的背景に最も調和する人事システムでなければ機能しないことは明らかなのに、『失敗の本質』はその社会学的な検証を一切行っていないのです。

 『失敗の本質』が絶賛する人事システムをもって戦った米軍ですが、朝鮮戦争では辛勝したものの、ベトナムではあの弱小国を相手についに勝つことができませんでした。
 大義なき戦いであったことが大きな理由ですが、動員されてきた兵隊たちをろくに統率できなかった指揮官たちの無能さが際立っていました。『失敗の本質』はその点にまったく触れていません。著者たちが絶賛した米軍の人事システムはまったく機能しなかったのです。

何が学び取れるのだろうか

 
 3回にわたってビジネスマン必読書と評判の高い『失敗の本質』について述べてきました。
 本書は確かに当時の最先端の戦史及び組織論の研究者が、社会科学の視点から戦史を分析した点において高く評価されるべきであり、また、論文の書き方、あるいは社会科学の分析の視点を学ぶ上では大変に価値のある教科書だと考えます。
 
 しかし、正直なところ、ビジネスマンの皆さんがこの本から何を学び取ることができるのか私には皆目見当が付きません。
 少なくとも防衛の最前線で実務に就くものにとって参考とすべきものはほとんどありません。
 戦場で戦うのは軍人であり学者ではないからです。
 
 戦場で指揮を執る指揮官は国家の命運に対する責任を負うと同時に、自分の命令で動く大勢の生命に対しても責任を負っています。
 たとえ大勢の部下の生命を失うことになっても、意味のある失い方をさせなければなりません。無駄に失わせてはならないのです。
 その決断を生身の人間が行うのです。
 そしていかに優秀な幕僚が付いていようと、最終的には指揮官が単独でその責任を負わねばなりません。
 
 この時に指揮官が耐えなければならない孤独感や苦痛を「アゴニー:agony」と呼ぶことがあります。
 ルカによる福音書第22章44節に出てくるゲッセネマにおけるイエス・キリストの苦悩を指す言葉ですが、まさにその苦悩を指揮官は味わうことになるのです。
 それは学者の後知恵による机上の理論で片付けられるような代物ではありません。
 「米空母の存在を確認したら、護衛戦闘機なしでもすぐに攻撃隊を発進させるべきであった。航空決戦では先制奇襲が大原則なのである。」というような簡単な話ではないのです。
 護衛の戦闘機無しの爆撃機及び雷撃機がどのような運命をたどっていくのか、目の前で、護衛戦闘機の随伴なしに来襲した米軍の爆撃機、雷撃機をゼロ戦が片っ端から撃墜していく事実を見ている日本側の指揮官にはよく分かるからです。
 身を斬られるような決断をしなければなりません。
 その理解なしに、硬直化した人事制度の話や戦いの原則など持ち出されても、何の説明にもならないのです。 

終わりに

 本書の分析が全て何の役にも立たないと申し上げるつもりはまったくありません。
 私が海上自衛隊に籍を置いていたために海軍の戦史の方がなじみが深く、それだけにミッドウェイ作戦の分析に違和感も大きく持ちやすかったというだけであり、ノモンハン事件やインパール作戦についての分析、論述はさすがに見事なものだと思っています。さらに、同じ過ちが私たち日本の社会は繰り返しているのかもしれないとも考えます。
 しかし、本書で語られたそれらの論点は語り尽くされたものであり、新たな視点が提供されたものではありません。

 結局、私にとっては社会科学の論文の書き方を学ぶ役には立ったかなというのが何度も本書を読んできた感想です。