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専門コラム「指揮官の決断」

第172回 

コンプライアンスとは・・・

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カタカナ英語の蔓延

今に始まったことではありませんが、世の中にはカタカナ英語が蔓延しています。日本語で言えばいいのに何故かわざわざ英語の単語を使う人が非常に多く見受けられます。

私の存じ上げているある著名な国際関係や危機管理に関する評論活動をされている方で現在は国会議員となった方も英単語を多用される方で、しかもその単語をカタカナ風に発音するのではなく巻き舌で発音されるので、私はこの方が英語を自由に操れるのだろうと思っていました。ところがいわゆる「パナマ文書」の騒ぎが起きた時にtax haven(租税回避地)について、「ここは税金天国と呼ばれているんですよ。」と解説されたのでビックリしたことがあります。havenとheaven の違いを理解されていなかったのでしょう。彼の英語が実はその程度であったことが披瀝されてしまったのですが、これは英語だけの問題ではなく、国際関係論の専門家が「租税回避地」という専門用語を知らなかったということでもあり、そもそも専門家としての資質が問われるものでもあります。

どうもカタカナ英語を使うとさも高尚な話をしているような気になる方が多いのではないでしょうか。

しっかりとした日本語の概念が乏しいのにそこに外国語を使うと多くの場合誤った用法になってしまいます。これは要注意です。

私たちに欠けている素養は

なぜそうなることが多いのかを考えるのですが、多分、現代日本に生きる私たち日本人の知性が欧米のものの考え方を十分に吸収できていないのではないかと思います。

明治維新後、日本の知識人たちは必死になって欧米の先端技術や考え方を取り入れようとしました。それまで日本になかった技術や考え方が洪水のように押し寄せたのですが、明治の知識人たちはそれに立ち向かい、それら新しい概念を適切に表現する日本語を作っていきました。

森鴎外や夏目漱石などというちょっと他の文学者たちとは別格の文学者を筆頭にそれらの努力が続き、日本語として新しい概念が定着していきました。

「民主主義」などという言葉もそうですし、野球に関する様々な用語は正岡子規が作ったとも言われています。(これには異説もあるようですが、広く知らしめたのが正岡子規であったことは確かでしょう。)

文学だけではなく技術も医学も軍事も同様で、新しい概念を表現するのに適切な日本を作っていく必要があり、それぞれの分野においてその概念を消化吸収する凄まじい努力がはらわれたのが明治初期です。

しかし平成から令和に移った現代の日本ではそれらの努力がほとんどされていません。それどころか外国から伝えられた言葉の本来の意味を理解せずにいい加減に使う風潮にあります。その結果が先にあげたtax haven です。

なぜ明治の知識人たちがやったことを現代の日本でできないのか。

私の仮説ですが、教養の差ではないかと考えます。

いわゆるリベラル・アーツと称される教養科目に関する知見が私たちに不足しているのではないでしょうか。

専門家ですら例外ではない

私にはコンサルタント仲間が大勢おります。私のような専門コンサルタントではなく経営一般のコンサルティングを行う経営コンサルタントのセミナーを聞くと「ドラッカーが云々、コトラーが云々」という話がよく出てくるのですが、ドラッカーの原典を読んでいないことがちょっと聞いても分かってしまう講師が大勢います。ドラッカーというとイノベーションしか語らないコンサルタントは大勢いますが、イノベーションを説いているのはシュンペーターであり、ドラッカーにとってイノベーションは彼の主張のごく一部でしかなく、むしろ経営者の精神性に重きを置いているのを理解しないコンサルタントばかりです。多分、ドラッカーの原典ではなく解説書やビジネス雑誌の記事で勉強しているのでしょう。

つまり私たちは情報に囲まれすぎていて便利な情報がたくさんあるために面倒な原典に遡らなくとも理解できたような気になってしまっているのです。

多分、現代の私たちに圧倒的に欠けているのは古典に関する素養でしょう。

私はケインズの一般理論を読んだことがない経済学部の教授を何人も知っています。

読まなくともケインズ理論の教科書は多数出版されているのでただの教授にはなれるのでしょう。

また、ランチェスターの法則やランチェスター経営戦略を説くコンサルタントやセミナー講師をうんざりするほど多数見てきましたが、ランチェスターの論文を読んだコンサルタントにお目にかかったことがありません。私は自衛隊の統合幕僚学校の図書室で偶然そのコピーを見つけて、当時書いていた論文の参考にと思って読んでいたのですが、これはランチェスターの時代にまだ戦力として一般的に採用されていなかった航空機の優位性を数学的に説明したものであって、弱者が強者に勝つための戦略書ではありません。

このように原典を読まずともいろいろなことを知識として吸収できる時代なので、皮相な知識しか身についていないのが私たちなのかもしれません。

もっと酷いのはWiKiペディアで知識を仕入れてテレビでコメントする評論家すら希ではないことで、ある時、WiKiが誤った解説をして三日後に訂正されたのですが、その間、多くの評論家が誤った解説を続けたのがおかしかった覚えがあります。

明治の知識人たちは論語などの古典を理解する教養を持ち合わせており、その教養の上に西洋の先端技術や考え方を必死に学んだのでしょう。

何がコンプライアンス違反なのか

最近とても気になっている単語があります。

「コンプライアンス」です。

年末年始に新聞にこの言葉が何度か現れ、しかも(法令順守)とカッコ書きが添えられていました。

かつて私が専門技術商社に入社し企画本部長の直属のスタッフとして勤務していた頃、経営会議でよく社長が「それはコンプライアンス的には問題ないか?」と質問すると、総務担当の役員が「ハイ、顧問弁護士に確認いたしました。」と答え、それで社長が納得するという場面を何度も見かけ不思議に思ったことがあります。

その後営業部長となり部長会議に出席するようになった後、ある時同じ質問を社長からされた総務部長が「ハイ、顧問弁護士に確認します。」と答えた次に私に意見を求められたため、「顧問弁護士に聞いたからってコンプライアンス違反かどうか分からないんじゃないですか?」と疑問を呈したところ、他の部長の誰も私の疑問の意味を理解してくれませんでした。

不思議に思ってあちこちを見ていると会社で社員教育として部外からセミナー講師を招聘して行っていたコンプライアンス研修というのがあったので覗いてみました。このセミナー講師もコンプライアンスを法令順守と説明していました。

結論から申し上げますが、元々complianceに法令順守という意味はありません。

英語でコンプライアンスを法令順守という意味で使う場合には legal compliance 又はcompliance with the law という言い方になるのですが、これは compliance という単語に「法令」という概念が入っていないためにわざわざそう表現しなければならないということです。

そもそも企業が法令を遵守しなければならないのは当たり前でありわざわざカタカナが表現する必要はありません。特別な概念ではないからです。

コンプライアンスとは本来は「社会規範に沿った行動を行うべきだ」という考え方であり、これを要するに「説明せよと言われて説明に窮するような行動を取るな」ということになります。

いくら法令上問題がなくとも、法令の網を潜り抜けるような行為は避けなければならないということです。

コンプライアンスを法令順守と思いこむことの危険性がここにあります。

合法的ではあっても法の盲点を突いたような振る舞いは逆にコンプライアンス違反を問われる恐れだってあるからです。

つまり、コンプライアンス的に問題があるのかないのかは弁護士に聞いても分からないはずであり、社長が自らに問いかけて初めて回答が出てくるという問いに他なりません。

カタカナ英語の危険性

同様の過ちは山ほどあります。

「リスクマネジメント」という言葉がその典型でしょう。

リスクマネジメントと危機管理は別物であると当コラムでは何度も繰り返していますが(専門コラム「指揮官の決断」第33回 「リスクマネジメント」VS「クライシスマネジメント」 https://aegis-cms.co.jp/590     )、リスクマネジメントを危機管理だと勘違いしている評論家は別に珍しくないどころか圧倒的多数でしょう。そのうち、リスクマネジメントは日本においては「危機管理」を指す言葉として定着しているなどという珍解釈をする者が現れるかもしれません。

ちなみにリスクマネジメントの本当の専門家の方々は「危機管理」という言葉をあまり使われません。彼らはリスクマネジメントが危機管理とは別の範疇のマネジメントであることをよくご存じです。(一般財団法人リスクマネジメント協会のウェブサイトをご覧になるとよく分かります。協会はriskという概念を危機と訳さず、リスクというカタカナ英語に置き換えています。)

日本語に適訳がない場合にはカタカナとするしかない場合もあるのでしょう。

カタカナ英語を使わざるを得ない場合には

英単語を会話に混ぜて自らの話を高尚なものに見せかけようなどというのは論外ですが、カタカナ英語を使わざるを得ない場合は確かにあります。ドイツ語でもそのような場合には英単語をドイツ語の格変化に合わせて使っています。

私も明治の知識人のような圧倒的な教養を持ち合わせているわけではないのでなかなか日本語で適訳を見つけられず、さりとて造語するほどの語彙も持ち合わせていないので仕方なくカタカナを使うことが度々あります。

たとえば「コンサルタント」です。これには相談役や顧問という訳をすることがありますが、私たち専門コンサルタントには当てはまりませんので、しかたなくカタカナで表現しています。

このように日本語に適訳が見つからず仕方なくカタカナで表現せざるを得ないものが多々あることは事実です。特に技術分野においては著しいでしょう。

Computer を電子計算機と訳したのは、その頃においては正しかったでしょう。そもそも世界初のコンピュータであるENIACは陸軍の射撃用の弾道計算に用いるために作られたものですから計算機であったことは間違いありません。

しかし今となっては単なる計算機ではなく、むしろ中国語訳の「電脳」の方が適訳かと思いますが、コンピュータというカタカナで理解しておいた方が今後の進歩について行きやすいかもしれません。

ダイバーシティって女性活用?

最近私が時々参加する会合で気になるのが「ダイバーシティ」という言葉です。二言目にはこの単語を口にされる女性経営者がいるのですが、そのうちこの「ダイバーシティ」という言葉が(女性活用)というカッコ書きで表現されるようになるのではないかと危惧しています。

なぜ「多様性」ではダメで「ダイバーシティ」というカタカナ英語を使うのでしょうか。

日本語ですら評論家や学者が本来の意味を理解せずに使うと意味が変節してしまうことがあります、「独断専行」や「忖度」などの言葉がそうです。(専門コラム「指揮官の決断」第67回 「独断専行」の意味  https://aegis-cms.co.jp/1030   )

まして外国語であればよほど注意しなければ本来の意味と異なる意味を持って独り歩きし始めかねません。

危機管理にとっては致命的

私が恐れるのはそのことによって同床異夢になるおそれがあるということです。

危機管理においてこれほど恐ろしいことはありません。

命令者と受令者あるいは報告者と受報者が同じ言葉を異なって理解すると事態はとんでもないことになります。

日本語には同義語がたくさんありますが、それぞれに微妙な意味合いが異なります。

そしてその中に自分の思いを的確に表す言葉があるはずです。

私たちはそれらを注意深く選び出し、自分の思いを正確に表現していく必要があると考えています。

そのために必要なのは、いわゆる一般教養であり、古典を読み解く力ではないかと考えます。