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専門コラム「指揮官の決断」

第199回 

ほたえなっ!

カテゴリ:

土佐の出ぜよ

妙なタイトルですが、意味がお判りでしょうか。

実は私には土佐の血が流れています。父方の祖父が大阪に出てくるまで、代々土佐藩士でした。表題は土佐弁で「騒ぐな!」とか「うろたえるな!」という意味です。

さすがに私もうんざりしているのですが、ここ半年間のメディアをはじめとする社会の騒ぎかたの低俗・低能ぶりにはあきれ果ててしまいます。

一方の一般国民は極めて冷静沈着で、まったく未知のウイルスに襲われ、メディアが出鱈目な報道を繰り返したために不必要に怯えさせられたことは否めませんが、家に閉じこもることを強制されたわけでもなく、単に自粛を要請されただけであるにもかかわらず、見事に自粛してまん延を抑え込んでしまいました。

日本の対応を手遅れだとか中途半端だとか批判したのは米国のメディアですが、その米国はいまだに、どころかだんだんに感染状況を悪化させ、連日5万人の新規感染者が見つかるという始末です。

私たち日本の庶民はしっかりと対応して医療崩壊を防いでいるのですが、それを危うく大変な事態に陥らせかねなかったのがテレビをはじめとするメディアであり、そこに登場する識者と言われる人々のデタラメさです。

識者の発言が無責任

緊急事態宣言が発令になったタイミングで、北海道大学の西浦博教授がこの感染を放置すると42万人が死亡すると警鐘を鳴らしました。結局、その後の死亡者が数百人にとどまったため、西浦教授の説はあちらこちらで叩かれることになりましたが、西浦教授は「このまま何の策も取らなければ」という前提で語っています。そして、ネット上に発表されている論文を見る限り、感染症の専門的なところはよく分かりませんが、少なくとも推測統計の精緻な計算がなされており、その論拠は確かなものと思っています。

ただ、例によってメディアはそのような前提を無視して42万人を独り歩きさせて、多くの国民を恐怖に陥れました。

西浦教授の議論は、当時まだ日本国内の感染状況についての確かなデータが無かったために、ドイツの感染状況からのデータを採用して計算したものをもとにしているようです。

これは計算をする上で仕方ないのですが、問題は発表の仕方です。

緊急事態宣言が発令され、これから国民全体が覚悟を新たに新型コロナウイルスと闘おうとしている時に、「何もしなければ42万人が死亡する。」などという計算結果を発表する必要があるのかということです。それをメディアがどう報道し、それを観た多くの国民がどう思うのかを考えるということが、この学者にはできないのでしょう。要するに専門以外のことに配慮ができないのです。

その他にも多くのテレビに登場してコメントを述べた医師たちが、東京がニューヨークのようになるのは時間の問題などと視聴者を怯えさせるコメントを連発したのがこの時期でした。メディアは、この国を何とかパニックに陥れようと躍起になっているとしか思えませんでした。

数字の見方を知らないメディア

東京で感染者が増えていることに菅官房長官が「東京問題」などという言い方をしたために都知事が怒っているという構図も滑稽です。

東京で夜の社交場関係者に感染が拡がっていると連日報道されていますが、これも出鱈目で根拠不足です。

歌舞伎町に検査ポストを設けて、自治体や業界の指導でそれら関係者がお店ごとに検査を受けているので、それらの感染者の割合が増えており、そこには20代30代の人たちが多数働いているので若年層の陽性判明者が増えています。単なる統計上の問題でしかないのですが、メディアは統計の見方を知らないので、それをもって若い世代の感染者が増えているとか、ホストクラブが危険というような報道になっています。そんなことは当たり前で、検査を受けている人の母集団の性質を考えたら当然です。幼児の感染者が増えているように見えないのは幼稚園で検査をしていないからです。これは考えようによっては風俗産業で働く人たちへの差別であり人権問題ですらあります。本来、そのような差別や人権問題を糾弾すべきメディアが率先して根拠のないニュースをまき散らしているのに、誰も何の批判もしません。

また、感染者の増加に歯止めがかからないという報道も疑うべきです。実際の感染者数は誰も計測していないから分からないのです。

検査数とそこで陽性と判定された人数から社会全体の感染者数を推計することはできないことではありませんが、現在のような検査態勢では母集団に偏りがあって統計学的にはあまり意味のある計算はできません。現在の検査は、感染が増えているであろう業界の実態を把握するために行っているのであって、日本の社会全体の感染者数を推計するために行っているのでないので無理もありませんし、間違っているわけでもありません。問題はその数字の意味するところを理解できないテレビ局の騒ぎ方なのです。

7月21日現在、全国の感染者が795名であり4月11日の743名の最多記録を上回ったとメディアは騒いでいますが、これも意味のない騒ぎ方です。

何度も申し上げているように、795名も743名も当日の新たな感染者ではありません。あくまでもPCR検査を受けた人の中での陽性判明者であり、全国の実際の新たな感染者数はもっと多いはずです。つまり、7月23日と4月11日の数字は検査の母数が違いますからこの数字を直接比べることに意味は全くありません。

ちなみに、4月11日に感染が判明した人々が検査を受けた頃の毎日のPCR検査数は6000件から8000件でしたが、7月23日に判明した人が検査を受けた頃の検査数は毎日10000件から16000件です。

それだけの条件で単純に考えると、新たに感染する人数は激減していることになります。

弊社では統計やORの手法によってのみこの事態を観測していますので、実際の新たな感染者数が増えているという結論は持っていません。

重篤化した患者が都内では1桁だったのが、先週からは2桁になりましたが、まだ増加傾向にあると判断はできません。1週間ごとの移動平均を取るくらいの期間の観察が必要です。

これを要するに、この社会が着実に免疫を獲得しつつあるということなのではないでしょうか。

メディアに向かって叫びたいのが今回のタイトルです。

「何を騒いでいるのだ、うろたえるな」 坂本龍馬なら吠えたでしょう。

感染者数で病気を語る異常さ

そもそも、普通の病気は患者数でその感染の大きさを測ります。

感染者数だけで議論してきた病気を私は他に知りません。インフルエンザでもエイズでも、感染者数を問題にした議論を知りません。

問題になるのは感染ではなく、発症であり、それが重篤化して死に至ることです。

皮膚の疾患である水虫だって感染症の一つですが、それで入院を必要とするような病気になったり死に至るということがほとんどないので何ら社会問題になりません。

患者数は減っており、死者数は激減しています。

つまり、実態としては報道されている陽性判明者よりもはるかに多い人々が感染しているはずであるのに、発症している人が少なく、まして重篤化して死んでしまう人が激減しているということです。

何故新型コロナだけが怖れられるのだろう

敢えて極論を承知で申し上げれば、これは喜ばしいことです。社会全体が免疫を獲得しつつあるということだと考えられます。私は感染症の専門家ではないのでこれが本当かどうか分かりませんが、常識的に考えて感染者数は拡大しているはずなのに、患者数が減っているのはそういうことだろうと考えています。もし、感染症学的に別の解釈があるということであればご指摘いただきたく存じます。

昭和30年代、結核が日本人の死亡原因の第一位で、これを何とかするために結核予防法という法律が成立したくらいです。しかし、現在、結核が社会的にどれほど恐れられているでしょうか。毎年3000人程度の方が結核で亡くなっています。しかも法定伝染病であり、これは空気感染することが知られています。

つまり日本の社会から結核菌は根絶されていないのに社会は結核菌に対する防御態勢を取っていません。

それは私たちのほとんどが結核菌に感染しているか、あるいはかつて感染して抗体を持っているからです。

かつてはツベルクリン反応検査が小学校で行われ、結核に感染していたり、あるいはその抗体がなかったりしたらBCGという痛い注射をされたものです。

死亡原因の第一位だったような感染症ですら感染者数で大騒ぎすることはなく、患者数で議論されています。現在でも感染した人はその辺をウロウロしています。要は、発症するほど大量の結核菌を持っていることが問題なのです。

新型コロナウイルスで亡くなったのはまだ1000人です。ちなみに、毎年インフルエンザを原因として亡くなる患者は3000人から10000人ほどです。

このウイルスの致死率は40歳以下では0.1%、80歳以上でも10%です。

インフルエンザでは40歳以下の致死率はもっと高くなります。子供が罹患すると重篤化するからです。80歳以上の方も肺炎を併発して危険です。

つまり、コロナウイルスで何をそんなに騒ぐのでしょうか。

死亡者は毎年の交通事故の三分の一以下です。規制すべきは不要不急の外出ではなく自家用車の運転であるべきです。

こうなると人災

統計学的に確実に言えるのは、失業率と自殺者は同じカーブを描いて増減しますから、コロナ後にはコロナで亡くなる方よりもはるかに多くの自殺者が出てくるということです。

コロナで亡くなるのはある意味で天災かもしれませんが、自殺者の急増は、メディアに踊らされて経済復興をおろそかにし、さらには消費税の減税や撤廃もせず、大規模な国債発行による財政政策・金融政策を講じないことによる人災であり、下手人は端的に申し上げればテレビ局と政権です。

この人は経済学を知らなかったのか

この問題を巡る識者の発言にはよく驚かされます。

小泉内閣で経済財政担当大臣として活躍された竹中平蔵氏にもびっくりさせられました。

インタビューでポストコロナの経済政策についてコメントを求められ、ミクロとマクロのバランス、短期と長期のバランスが大切と答えているのを聞き、「そんな答えでいいのなら俺だって喋れる。」と思っていました。さすがに、そんなバランスはどうでもいいからマクロをやれなどと乱暴なことを言いきれる経済学者はいないでしょう。

びっくりなのは一人当たり10万円というようなミクロの問題も大切だが、マクロの問題も考えなければならないということなのだそうで、椅子からずり落ちそうになりました。私は経済学修士でしかなく、しかも組織論を研究していたことはありますが経済理論は専門ではないので、竹中先生の足元にも及ばないのですが、しかし、一人当たり一律10万円の給付金をミクロの問題ととらえる経済学者がいるなら「一歩前へ出ろ!」ということを憚るつもりはありません。

道理で、この人が大臣の時に、バブル崩壊後の日本経済の復興を担当しているにもかかわらず、不良債権の処理と言うたびに株価を下げるということを平気でやっていたことの理由が分かりました。この学者は経済学をどこで学んだのか知りませんが、所得理論というものを理解していなかったのです。

当時の私は、何故不良債権の処理なんかにこだわるのか、その理由が全く分かりませんでした。(今でも分かりません。)

この政権も経済を理解していない

この一律10万円の給付金が決まった時、菅官房長官が記者会見でその給付金を申請するつもりがあるかどうかを問われ、「常識的に申請することはありえない。」と答えているのを見て、やはりこの政権も経済学をまったく理解していないことが分かりました。

この給付金の目的を考えろ、ということです。

本質は委縮しきった経済を動かすための給付金です。ところが苦しくなった家計を補助するための給付金だと官房長官自身が誤解しているのです。官房長官自ら率先して申請して受け取るべきです。そして必要なところに寄付すればいいのです。そうしなければ10万円が国庫に眠るだけです。貨幣は流通しなければ役に立ちません。

現金をもらって現金で寄付しても目的に反します。何かを買って、そのモノを寄付することにより、モノが売れると同時に困っている人たちに直接必要なモノが届きます。

「デフレ脱却」を政策のトップに掲げながら消費税の増税を平気でやるような政権の官房長官だけあって、経済はまったく理解されていないのでしょう。

健全な財政とはプライマリーバランスが黒字であると思い込んで頭が固まっている人ばかりが財務省と政権にいるようですが、最近流行のMMTなど持ち出さずとも、私たち昭和の時代にケインズ経済学を学んだ者にとっても財政の健全性の指標がインフレレートであることは自明なのですが、どこで経済学を学ぶとプライマリーバランスの黒字が健全財政だということになるのでしょうか。

統計の数字を全く理解できないテレビがこれら識者や政府要人の発言を電波に乗せるのですから私たち庶民が混乱するのは当然で、しかし、その大混乱にあっても沈着冷静に対応して米国のような無様な感染を引き起こさなかった私たちの社会は称賛に価すると思います。私たちは自身を誇りに思っていいでしょう。

200号に向けて

当コラムは皆さまの励ましのお蔭を持ちまして次回200号となります。このところコロナにふりまわされておりましたが、200回からは初心に帰り、本来の危機管理の専門コラムとしての役割を果たしていく所存でございます。

そう思っている矢先に、九州を中心とした豪雨で熊本では大きな被害が生じました。

特に球磨川流域での被害は悲惨なものでした。もともと日本三大急流に数えられる球磨川は歴史的にも洪水を繰り返しており、その対策のために1960年代半ばから川辺川ダムの建設が始まっていたのですが、地元漁民や農民への補償の問題が解決せずに事業がなかなか進展していなかったのが、民主党政権下の事業仕分けにより中止となってしまいました。結局、民主党の掲げた「コンクリートから人へ」の標語の下で多くの人命が失われることになりましたが、それらに携わった当時の与党議員たちはその問題に触れようとしません。せめてボランティアにでも行けばいいのですが、怖くて行けないのかもしれません。

現地からの報道に私たちが心を痛めていた7月14日、広島の小学校でとんでもないことが行われていました。

当日、広島県内では土砂災害が相次いでいて大雨洪水警報が出ていたのですが、安佐南区の市立長束小学校の5年生50名が教員に引率されて太田川放水路の見学をしていたのだそうです。生徒たちは放水路沿いを歩いてポンプ場を見学したのだそうですが、その時の水位は氾濫注意水位を超えていたそうです。

この小学校の校長は「災害時に地域の命を守るポンプの役割を知ってほしかった。雨がやんで水位が下がっていたので安全だと判断した。」と述べているそうですが、ポンプの役割以前に、どういう時に洪水が起きるのかを勉強しなければならないのはこの校長でしょう。自分のところの雨がやんでいても、洪水は上流からの水で生ずることすら知らずに、よく小学校教育の現場に立てるものだと感心してしまいます。

先に東日本大震災における宮城県の大川小学校において多くの児童が津波に呑まれた事故の最高裁判決において、最高裁裁判官は小学校教員に何を期待しているのかと疑問を呈したことがあります。(専門コラム「指揮官の決断」第159回 地方自治体の責任能力 その2  https://aegis-cms.co.jp/1705 )

判決は、小学校教員は一般に比べて優れた危機管理能力を持っているはずだとして、地震津波に対するマニュアルを改訂していなかった教育委員会や市の責任を認めませんでしたが、自然災害に関する小学校教員の認識など、この小学校長がいい例ですが、一般よりも優れているとは到底言えないでしょう。

これは公立小学校教員の能力が低いと申し上げているのではなく、もともと小学校教員にそのような危機管理能力は期待されていないだろうと申し上げているのです。期待されており、それが小学校教員にとって当然に持つべき見識であるのなら、採用に当たってそれが検されているはずです。求められていないから採用試験に危機管理の問題が出題されていないのです。

そういう意味では最高裁裁判官にだって大川小学校の現場にいたら児童を適切に誘導などできなかったはずです。彼らは法律のプロかもしれませんが、危機管理の素人です。

一体裁判官たちは何を小学校教員に期待しているのかを疑っていたのですが、この度私の危惧は再度的中することになりました。

当コラムは本来はこのような問題を究明しなければならないはずで、数字の見方も知らないメディアなどに関わっている暇はないはずだったことに思いを致し、次号からはその反省の下に態勢を立て直そうと考えております。