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専門コラム「指揮官の決断」

第206回 

メディアの終焉

カテゴリ:

新型コロナウイルスを巡る報道:品性すら卑しい

当コラムではテレビというメディアの情報操作について度々言及してきています。彼らの情報操作がこの国の「空気」を誤らせ、視聴者を委縮させ、この騒ぎを拡大してきたことに批判をしてきました。

一方、もし彼らが意図的な情報操作や虚偽の報道などしていないと主張するのであれば、それはそれで大変なことです。

視聴率獲得のために、真実ではないと承知しているにもかかわらず自分たちの主張を裏付けるのに都合のいいデータや場面だけを使用しましたと言うのであれば、それはよくありがちなことであり、激しい視聴率競争を戦い抜くのに必要なことなのかもしれません。

しかし、もしそうではなく、「当局は取材に基づいて正しい報道を行っています。」と言うのであって、自分たちもそう信じているのであれば、それは能力がお話にならないくらい低い人々が集まって番組を作っているということになります。あえて差別用語を使わせて頂くと、とんでもない馬鹿ばかりが集まっているということです。

能力が低いだけでなく、品性が下劣な人々の集合でもあります。女優の岡江久美子さんが亡くなって御遺骨が自宅に戻る時、カメラが放列を敷いて待ち構え、大切な家族が亡くなったことに悲しみに沈む御遺族の映像を興味本位で撮るなどという人として恥ずべき行動を平気でとるのがマスコミです。彼らには「恥を知る」という言葉が理解できません。

そこには人の不幸で視聴率を稼ごうという魂胆しか見えてきません。

社会や人の不幸が稼ぎ時

台風10号の報道もしかりです。

NHKにいたっては台風が奄美大島の南にいた9月6日の午後9時以降の番組編成を改め、台風のための特別番組を作って待ち構えていました。当日の朝刊のテレビ欄を見てビックリしたものです。

しかし、台風は気象庁の発表どおり凄まじい勢力を保ちながら北上していたものの、九州に最接近した時点で、急に勢力を落としたため、河川の氾濫などに至らずに済みました。直前に同じ海域を通過した第9号が海面を掻き回して、海水の表面温度が下がっていたのが原因です。

NHKの落胆ぶりは見ていても滑稽なほどでした。どこからも大被害の報告が上がってこないので、昨年の台風の映像を出したり、どこかの民家で窓ガラスが破れてけが人が出たなどの話を延々と繰り返す始末です。

テレビ各局はさぞかしがっかりしたことでしょう。

彼らはこの日本の社会が不幸になればなるほど嬉しいのでしょうから。

新聞よ、お前もか?

それではテレビはともかくとして、新聞はどうなのでしょうか。

かつて、新聞は勉強の教材でした。

朝日新聞の天声人語とその英訳で英語の勉強をした方も多かったはずです。

経済学研究科の院生だった頃、大学の博士前期課程院生用の研究室で、私は新聞のスクラップを作っていたことがあります。大学の図書館で4紙くらいを読んでめぼしい記事を見つけておき、経済学部長の秘書に頼んでおいて、経済学部として購読している新聞が毎週月曜日に前週分が廃棄される前に該当記事を切り抜かせてもらっていました。

修士論文を書き上げるまでに作った1年半分のスクラップは膨大な量で、スクラップの対象も社会科学だけではなく、海洋や天文、考古学など幅広かったので、大学院を修了した時に持って帰るのが大変でした。

その新聞に私が疑問を持ち始めたのは湾岸戦争の頃でした。

当時私は米海軍への連絡官業務でペンシルバニア州に家族とともに赴任していました。

この時、ニューヨーク・タイムズが配達され、読売新聞が一日遅れで郵送されてきていました。

3月中旬に着任し、その年の8月にイラクがクウェートに侵攻するという事件が持ち上がりました。湾岸戦争の始まりでした。

私はイージス一番艦の建造を円滑に進めることが任務でしたが、自分が駐在する国が戦争に巻き込まれていくという状況を見るという自衛官としては希に見る経験をすることができました。一般的な情報収集の任務を与えられていたわけではありませんでしたが、自衛官の常識として、米海軍内部にいて知りえた情報について、米海軍の了解を得て海幕に送っていました。

そこで気が付いたのが、湾岸で起こっていることと日本の報道にギャップがあることでした。

また、米国内において生じている様々な事柄についても、日本の報道を見ていると違和感を持ちました。報道が伝える米国内の雰囲気と、私たちが街で感ずる米国人の雰囲気にギャップがあったのです。

米国は広い国ですので、記者が見ている米国と私たち家族が見ている米国が違うのかもしないと当初思っていたのですが、ある時ワシントンのホワイトハウス前で見た湾岸戦争に反対する集会の記事と写真を見て、明らかに日本の新聞がおかしいと気付きました。

日本の新聞に掲載された写真は、間違いなく私が出くわした集会の写真なのですが、参加人数は、私はどう見ても100人いないと思っていたにもかかわらず、新聞には3000人が参加と報じられたのです。しかも、集会のリーダーがマイクを取って行ったスピーチの意味をまったく記者は理解しておらず、戦争反対の集会に3000人が参加して抗議を行ったと報道されたのですが、そのリーダーのスピーチは開戦に反対したものではなく、この事件を巡って中東やイスラム世界を差別的な眼で見るのではなく、冷静に歴史からひも解いて彼らを理解しよう、この事件をそのためのいい機会にして、世界が結束することが重要だという、なかなかのものでした。記者はスピーチを聴きとれなかったのか、そのリーダーのアピールを全く理解できなかったのかのどちらかです。

ちなみに、その記事は特派員の記事であって通信社の配信ではありませんでした。

その経験から新聞も鵜呑みにはしないようにして見ていますが、最近の新聞のレベルの低さには呆れかえります。

言葉を知らない新聞

新聞で時々話題になるのが「コンプライアンス」です。何故か新聞は「コンプライアンス」と書かず「コンプライアンス(法令遵守)」と書くのですが、そもそもこれが間違いです。

このことについてはすでに当コラムでお伝えしていますが(専門コラム「指揮官の決断」

第172回 コンプライアンスとは・・・ https://aegis-cms.co.jp/1862   )、コンプライアンスに「法令遵守」という意味はありません。もし「法令遵守」と言いたければ「リーガル・コンプライアンス」と言わなければなりません。英語でもcompliance with the law とわざわざ記載するのは、compliance に法令順守という意味が無いからです。

以前にも申し上げましたが、コンプライアンスは法令遵守ではありません。合法であっても、それが法律の網を潜り抜けるような真似をしているのであれば逆にコンプライアンス違反です。

あえてカッコ書きで説明したいのなら、(社会規範遵守)とでもするべきです。

要は、後で説明せよと言われて説明に窮するようなことはするなということであり、法律に違反していなければいいということではありません。

新聞はそれを理解できていません。

これも以前にお伝えしましたが、新聞は「独断専行」という言葉の意味も理解していません。

昨年11月28日、地方紙各紙が一斉に「中国、米が独断専行なら報復」という見出しを掲げた記事を掲載しました。これは中国が香港人権・民主主義法の成立を受けて米国が対応することを牽制するために行った声明についての報道ですが、中国の報道官は「米国が独断専行するなら」という言い方はしていません。中国報道官の報道の英訳を見ると、米国が中国との調整に応ぜずにこの愚挙を強行するなら、と言っています。

この記事は共同通信社が配信して各紙が一斉に掲載したもので、共同通信社の記者が「米国が独断専行なら」という解説文をつけたのをそのまま掲載したものです。つまり、共同通信の記者も、それを受けて掲載した各紙の編集者も「独断専行」の意味を理解していません。

毎日新聞は6月10日の記事で、コロナ対策に関する吉村大阪府知事の手腕は良くも悪くも独断専行であるとし、東京新聞は側近の異論を押し切って全国一斉の休校要請を決めた安倍首相を独断専行と評しています。

これらの新聞も「独断専行」の意味をまったく理解していません。

独断専行は、トップが周りの意見を聞かずに自分の意思を押し通すことではありません。

独断専行とは、現場を任された現場指揮官が、上級指揮官から得ていた情報と現場の情勢に大きなかい離があり、上級指揮官から与えられた命令通りに行動すると失敗することが明白である場合に、その命令から離れて独自の判断で行動することであり、その独断専行を行うに際しては次のような厳格な要件があります。

上級指揮官が現場の現在の情勢を正しく理解していないことが明らかであり、それを報告する時間的余裕がないこと、普段から上級指揮官との間に意思疎通が良好に行われており、上級指揮官の意図を自分が誤解していないことに確信があること、報告ができるようになったら速やかに報告すること、自己の利益のためにするものではないことなどの要件があります。

そして、現場指揮官は上級指揮官の命令が明らかに現場の情勢に合致していないことを知りながら、自分に与えられた命令に固執して独断専行を行わなかった場合、免責されることはありません。現場指揮官は独断専行の要件が揃った時には独断専行をしなければならないのです。

つまり、トップに独断専行はありません。新聞が伝えるような状況は独断専行ではなく、トップの我がままであったり横暴であるというだけで、わざわざ独断専行という言葉を持ち出す必要はありませんし、持ち出したことで過ちを犯したことになります。

『失敗の本質』で有名な野中郁二郎氏も「関東軍の独断専行」というような表現をされることがありますが、これも間違いです。関東軍の暴走であり、独断専行ではありません。陸軍省や大本営は度々関東軍にブレーキをかけ、事態の拡大をしてはならないと指示を出しているので、それに従わないのを独断専行とは言いません。

これらの有識者たちがこの言葉を出鱈目に使うので若い新聞記者が誤解するのは仕方がないのかもしれません。

そしていつしか「独断専行」はやってはならいもののように思われています。

今問題になっているのは、現場で自分の判断で臨機応変の対応をできる人材がいなくなっていることです。責任を負うことを怖れ、独断専行をしないのです。

東日本大震災において、東京電力福島発電所にいた吉田所長がそのような所長であったらこの国は大変なことになっていたかもしれません。

東電本店から海水による冷却をやめるように指示され、吉田所長は「止めた」と報告しつつ、実際には冷却は続けていました。これがこの国を救いました。

現場には独断専行できる指揮官を配置しなければなりません。

忖度という言葉も、やってはいけないことのように理解されていますが、これは大変な誤解です。

忖度とは相手の心中を推し量ることであり、官僚が政権を忖度せずに行政を進めたら大変なことになります。明示的な指示が無いかぎり官僚は政権の想いと関係なく自分たちの考えで行政を行うなどということになったら民主主義が崩壊します。

選挙で選ばれた政権に忖度するのは官僚としては当然なのです。

目を覆うしかない

新聞記者は広辞苑などをPCの横において仕事すべきです。

私が現役の自衛官だった頃、文書の起案に際しては、公用語辞典を必ず机の上において仕事をしていたものです。意志と意思は違いますから「意志決定」などと書かれた文書が来たら、私はその場で理由を告げずに突き返したものです。そのような言葉を使うのは指導以前の問題だからです。

現在の新聞記者にはそのようなことも期待できなくなりました。

新聞記者及び編集者のレベルの低下には眼を覆いたくなります。

各紙とも購読者数の減少に苦慮しています。朝日新聞が大幅に読者を減らした原因は明らかですが、他の各紙はそれをインターネットの普及が原因だとしているようです。

若い人たちが新聞を読まないのはたしかにインターネットで必要な情報を得られるからでしょうが、私たちだって何千円も払って新聞を購読するのが馬鹿馬鹿しく思うことがあります。

新聞のいい加減さが鼻についてきているということに各紙は気が付くべき時が来ています。