専門コラム「指揮官の決断」
第132回忖度しましたが何か?
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今更驚かないがお粗末ですね
現政権の閣僚は何故このようなお粗末な人材が多いのでしょうか。
オリンピック・パラリンピック担当大臣が問題発言によって辞任しました。この発言もマスコミが前後を適当に切って意図的に問題発言のように作ったのかもしれませんが、当選7回、閣僚経験半年になる政治家がその程度のマスコミの操作に引っかかってしまうお粗末さはいかがなものでしょうか。そもそもかつて当コラムで指摘したとおり、この政治家には覚悟も責任感も欠如しているのですからお辞めになるのは結構なことだと考えます。
さらに国交省の副大臣が「忖度」を巡る発言で辞任しました。私は今更この政治家の資質などを問題視しようとは思いません。政治家に資質などを期待するのをあきらめているので、どうでもいいことだと思っています。
しかし、この政治家の発言を巡る一連の騒動には様々な問題があって看過できないという思いもあります。
副大臣は事実と異なる発言で行政への信頼を損ねたと陳謝したと伝えられていますが、彼の支持者の前で事実と異なる発言をしたのであれば、行政への信頼を損ねたのではなく、支持者に対して嘘をついたことになるので、政治家として有権者への背信行為をはたらいたのであって、副大臣よりも国会議員を辞職すべきでしょう。論点が間違っているように思います。
忖度の何が問題なんですか?
論点の誤りがまだあります。
副大臣として政権を忖度したことは当然であり責められることではありません。むしろ、まったく忖度しない副大臣であれば、むしろそれを罷免すべきです。
また、その副大臣を非難する評論家やマスコミに至っては「忖度」という言葉の意味を理解しているのかどうか疑わしく思っています。
どうも世間一般に「忖度」とはやってはいけないことだと考えられているようですが、これはとんでもない誤解です。「忖度」とは他人の気持ちを推し測ることであり、もし行政が政権を忖度しなくていいということになるととんでもない世の中になってしまいます。
かつて「独断専行」という言葉の意味が正しく理解されておらず、学者や著名知識人と言われる人たちもこの意味を誤って使うことが多いことを指摘したことがあります。あたかも「独断専行」はやってはならないことのように言われることが多いのですが、実は独断専行はやらねばならない場合があります。
「忖度」も同様で、本来は大切なことなのですが、どうも誤解されているのかもしれません。
三権分立の我が国の国政においては、行政は立法府が法律の形で定めた政策を実施に移す責任を負っています。予算が法律の形をとって成立するのはそのためです。
ところが忖度が良くないことだということになると、政権が公約として何を掲げようが、首相がどのような方針を出そうが、明示的に示されない限り対応しなくていいということになります。「官邸がどう考えようと我々行政には我々の考え方がある。」として行政府が自らの優先順位に従った施策が取られていくことになってしまうのです。つまり、立法府が作った法律を官僚が字義にだけ従って淡々と執行することになり、立法の趣旨が反映されないかもしれないのです。国民が選んだ政権の思いを行政府の官僚たちが顧みなくていいということはそういうことなのです。
行政は民意で選ばれた政権を精一杯忖度しなければならないはずです。私たちは行政府の役人を選ぶことはできません。私たちの思いを国政に反映させるためには国会議員の選挙において国会議員を選び、その国会議員たちが作る政権を通じて理想を実現させるしかないのです。
つまり、政権は民主主義的な手続きによって選ばれてできるものであり、その政権を忖度した行政は民意を反映しているはずなのです。
にもかかわらず世論は政権を忖度した副大臣や官僚を吊し上げます。これは矛盾ではないでしょうか。
政権トップが自分の利益を優先したり、地元への利益誘導のために国家予算を使おうとしているのであれば、その責任はそのような政権を選んだ民意にあるはずです。
レベルの低い閣僚の任命責任は首相にあるのかもしれませんが、レベルの低い政権を誕生させた責任は国民にあるはずです。
かつて危機管理がほとんどできない政党が政権の座に着き、海上保安庁の巡視船が中国の漁船に体当たりをされてもまともに処罰できず、また、日米の安全保障関係が戦後最悪になったり、1000年に一度という規模の大震災に見舞われ、対応がその場しのぎに終始して辛酸を舐めさせられたりしたのですが、一時のポピュリズムに動かされてその政権を選んだ私たち国民の責任であり、政権を責めるのは天に唾する行為でしかありません。
行政は政権を忖度するのが使命
私は海の上で働きたかったのですが、意に反して東京での役人暮らしを10年以上させられました。この間、自分たちで考える優先順位と政権の意思が必ずしも整合が取れないことも多々あり、そのせめぎ合いの中で苦しんだことも少なくありません。なぜなら行政官は政権を忖度しなければならないからです。選挙で選ばれた政権の意思はほぼ絶対なのです。
その政権が腐敗していようが堕落していようが行政官は選挙で選ばれた政権の意向を実現するように努力させられるのです。行政官は政権を選ぶことが出来ないからです。
政治主導とは政治の行政に対する優位を指していますが、行政が政治に命ぜられたことだけをするのではなく、政権への積極的な忖度が無ければ真の政治主導は実現しません。
今回の騒動の問題の本質は道路行政を担当する副大臣が政権を忖度したことではなく、得意満面で笑いを取るためにくだらない冗談で大見えを切ったことの品の無さであり、形式な問題としては有権者に対して嘘をついたことにあります。「忖度」したこと自体を責めるのは本末転倒でしょう。
まぁ政治なんてその程度のものでしょう
私は当コラムにおいてこの国の民主主義を信じていないと度々申し上げてきました。民主主義は私たち国民がしっかりと責任を取るという覚悟がなければ愚衆政治にしかなりません。私たちにはまともな政治家を選び、まともな政権を誕生させる責任があるはずです。
まともな政治家に必要なのは、なによりも責任感と覚悟、そして経済と安全保障に関する知見は必修項目です。その上に行政の様々な課題に対応できる専門的知識、経験がなければなりません。しかし、責任感と覚悟を持ち、必修項目をクリアしている政治家はほとんど絶滅危惧種ですし、そのうえに何らかの専門的知識経験を持った政治家というのはほとんど天然記念物クラスの希少価値でしょう。
私は自らを省みて政治家たちの能力について云々するつもりはありませんが、しかし、責任感と覚悟の無さには呆れています。
ちょうど統一地方選挙の最中で大都市では選挙戦が戦われていました。これまで、うんざりするほどの選挙戦を見てきましたが、その中でもうんざりさせられるのは政治家の決まり文句です。「私は皆様のご期待に沿うよう国政の場において命がけで戦ってまいります。」という選挙カーのがなり声を何度聞いたかわかりません。
しかし、我が国の憲政史上、自らの公約を実現できなかったとして自決した政治家をただの一人も知りません。
軍人の世界では戦いに敗れると責任を取って自決する者が珍しくありません。第2次大戦中、帝国海軍の軍艦の艦長たちの多くは自艦と運命を共にしました。米海軍においては指揮官は報告のために生還することを命令されていたため運命を共にした者はほとんどいませんでしたが、英国海軍の戦艦や巡洋艦の艦長たちも艦と運命を共にした者が数多くいます。
帝国陸軍においても日露戦争中、旅順要塞の攻撃に失敗して連隊旗を焼いて自決した連隊長が多数います。
しかし、政治家は命がけで事にあたると何度も声高に叫ぶにもかかわらず一人たりとも命をかけた者がいないのです。甚だしきは、政治家の権力を利用して私腹を肥やしたことが発覚しても彼らは決して自決したりすることなく、恬として恥ずることを知らないのです。
私が政治家を一切信用せず、その結果、我が国の民主主義も信じていないのはそのような背景があるからです。
さらに申し上げるとそのような政権を延々と誕生させている私たち自身のいい加減さにうんざりもしています。
私の政治や政治家に対する嫌悪感は当分払しょくできそうにありません。